戸隠山の組織や機構に目を転じると、一一世紀後半が大きな転換期であったことがわかり、この時期に山麓の宗教集落が本院(奥院)・中院(富岡院)・宝光院(福岡院)の三院に分立したらしい(『顕光寺流記』。以下とくに断らない限り同書による)。本院の講堂が建立されるなど、大伽藍(がらん)がととのって顕光寺の寺号を称するようになるのも、このころからと考えられる。
当時の寺内の組織は断片的な史料から察するに、別当を頂点にして、その下に権(ごんの)別当や小別当がおかれ、さらに実務を担当する上座・寺主・都維那(ついな)の三綱(さんごう)制が敷かれていたから、基本的には一般寺院のそれと変わるところはなかった。これにたいして、戸隠独自の僧職として灯明職があったが、これは本院の権現堂に隣接した灯明堂の管理を担当した役職のようで、権別当につぐ地位であったことが注目される。また、常住の僧には研学と修行にいそしむ学侶(がくりょ)と、寺内の雑務を担当する行人(ぎょうにん)との二大区分もあったようである。学侶のなかには阿闍梨(あじゃり)の職位を有するものも何人かいたが、これは密教で修行が一定の段階に達し、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)により秘法を伝授された僧のことである。この事実は戸隠顕光寺にも平安末期には、天台密教の影響がおよんでいたことを示しているが、これは当時、戸隠顕光寺が比叡山延暦寺の傘下に属していたためである。
すなわち、善光寺が天台宗寺門派の本山である園城寺(おんじょうじ)の末寺となっていたのにたいして、戸隠はそれと犬猿の仲にあった天台宗山門派の拠点、延暦寺の末寺となっていた。当時の宗教界における本山と末寺の関係は、中央の有力寺院(本家)が、末寺である地方寺院の権益を擁護(ようご)するかわりに、末寺は本家にたいして年貢を納入するという、経済的領知関係を機軸とするものであったが、そのことはまた、顕光寺自体が在地の北信濃では、いわば宗教領主として存立していたことを意味している。具体的に知られるこのころの所領としては、常灯料として見える楢尾(ならお)(戸隠村奈良尾)や杉原(比定地不詳)、さらに平正弘がやはり常灯料として寄進した木那佐(きなさ)山があった。これは単なる山の名前ではなく、山野の用益権を主たる得分としつつも、周辺の耕地もふくんだ「山所領」というべき形態のもので、その領域は現在の鬼無里村付近にあたる地域であろう。このように寺院の本末関係も、その本質は荘園制に準じた支配関係にあったといってよいが、むろんそれだけでなく、前述した例のように、本寺の法義や組織のありかたなどが地方寺院にも取り入れられる媒介ともなっていた。
ところで、戸隠一山を統率した別当制の変遷をみると、延暦寺の末寺化したとみられる一二世紀半ば当初は、本家の延暦寺僧がもっぱら別当に任命されていたようだが、しだいにそれと顕光寺の住僧(寺家僧)とが交互に任命されるようになり、さらに平安時代末期以後はもっぱら寺家僧によって占められるようになっていた。しかも注目されるのは、その寺家僧の場合は、高井郡井上郷の領主井上氏と、村上氏の一族であった水内郡栗田郷の領主栗田氏が独占し、当初は両氏がほぼ交互に就任していたことである。双方とも清和源氏の一族であり、戸隠が山門派に属しながら、源平合戦ではいち早く源氏方に味方したのも、ここに理由がある。井上氏出身であることが確実な最初の別当は十三代とされる静実だが、かれは井上満実(頼季の子)の子で、天永(てんえい)元年(一一一〇)白河上皇を呪詛(じゅそ)したかどで土佐国に配流されたことが知られる人物であった(『百練抄』)。
この事件のあとに別当に任じられ、その後も通算して四回も別当を勤めた寛範は村上氏出身とみられる僧であり、その弟子で二十五代別当となった寛覚は村上判官代為国の五男である。前にもふれたように、治承四年(一一八〇)木曾義仲の旗揚げに応じた「栗田寺別当大法師範覚」は時期的にみて寛範のことらしく、これを記す『吾妻鏡』の誤記(誤写)と考えられる。寛覚が「栗田」を名乗りとしていたのは、村上氏が開発した栗田郷内に所領をもっていたためらしく、その一部は戸隠の寺領にもなっていた可能性がある。このほか、寺家僧には水内郡の若槻氏出身と推定される僧もおり、仏具の寄進や堂宇の修造などにかかわった人物なども考えあわせてみると、当時の戸隠顕光寺は実質的には善光寺平周辺の在地領主層に支えられる面が強かったといえるだろう。ちなみに、寛覚のように別当みずからか合戦に従軍したことは、戸隠のような地方の山岳系寺院が、多数の衆徒や僧兵を抱えた軍事力の基盤ともなっていた事実を示唆(しさ)するもので、ここにも宗教領主としての片鱗(へんりん)をうかがうことができる。