頼朝による善光寺再建

518 ~ 520

鎌倉幕府の成立は、善光寺の歴史にとっても新たな幕開けを意味するものであった。前述のように、善光寺は源平内乱期の治承(じしょう)三年(一一七九)に火災にあっていたが、源頼朝(よりとも)は平氏を滅ぼして守護・地頭を設置した翌々年の文治(ぶんじ)三年(一一八七)七月、早くもその再建を信濃国内の御家人らに命じている。『吾妻鏡(あずまかがみ)』にひく七月二十七日付の下文(くだしぶみ)によれば、先年の火災で礎石のほかは何も残されていないありさまだったといい、荘園・公領を問わず、一味同心して勧進上人(かんじんしょうにん)と力を合わせ、工事を完成するようにと督励(とくれい)している。翌二十八日には信濃国目代(もくだい)の比企能員(ひきよしかず)あての書状も出されているが、頼朝がこのように国衙(こくが)機構を主導する権限を有したのは、当時、信濃国がその知行国(ちぎょうこく)(関東御分国)であったためであった。すでに文治元年八月、信濃のほか相模(さがみ)(神奈川県)・上総(かずさ)(千葉県)・越後など八ヵ国が頼朝の知行国となり、頼朝の推挙により源氏一族が名目上の国司に補任(ぶにん)されていた。信濃守には甲斐源氏の加々美遠光(かがみとおみつ)がなったが、頼朝の乳母子(めのとご)で側近の比企能員が目代(もくだい)として事実上の国務を執行し、さらに信濃国の守護職(しき)も兼ねた。信濃国にこのような強力な支配がおよんだのは、むろん木曾義仲の旧領であったことが影響している。

 頼朝が善光寺の造営に力を入れたのは、当時、阿弥陀(あみだ)信仰の霊地(れいち)として善光寺の名声が知れわたり、信濃の大寺院に成長していたためだと思われるが、頼朝自身もしだいに善光寺への信仰を深めていったらしい。建久(けんきゅう)二年(一一九一)十月善光寺の主要伽藍(がらん)がいちおうの落成をみて、その供養がおこなわれたが、『吾妻鏡』によると、その四年後の建久六年八月、参詣の志はあるのだが、向寒の季節でもあるので、明春に延引する旨を御家人らに触れさせたとある。同書の写本は、いずれも建久七年から九年までの三ヵ年分がそっくり脱落しているため、このあと頼朝の善光寺参詣を示す記事は見当たらない。しかし、『立川寺(りゅうせんじ)年代記』には頼朝は建久八年三月に参詣したとしている。また肥後(ひご)(熊本県)相良家(さがらけ)文書のなかに、八年三月二十三日付の「右大将家善光寺御参随兵(ごさんずいひょう)日記」という、頼朝に随仕(ずいし)した御家人たちの交名(きょうみょう)(名簿)が残されている。紙・書体から南北朝期の写しとみられるものの、内容的にはほぼ事実とみてよいだろう。これによると、信濃関係の武士として村山七郎(義直)、望月三郎(重隆)、海野小太郎(幸氏(ゆきうじ))、藤沢四郎(清親)、村上判官代(ほうがんだい)(基国)などの名がみえ、さらに八田太郎佐衛門尉(じょう)(小田知重)、小山五郎(長沼宗政)、江間太郎(北条泰時)といった関東の有力御家人もふくまれていたことは注目される。

 なお、下野(しもつけ)(栃木県)宇都宮氏の一族で、歌人としても知られた塩谷朝業(しおやともなり)(信生(しんしょう)法師)は、元仁(げんにん)二年(一二二五)に善光寺を訪れているが、北条政子の死を聞いて鎌倉に帰り、彼女が「秋、かならず修行」といっていたことばを思い出して、世の無情を嘆いたことがその紀行文『信生法師集』にみえている。北条政子も善光寺参詣の宿願を抱いていたことが知られるのである。


写真9 源頼朝の墓
(神奈川県鎌倉市)