頼朝の亡きあとは、北条氏が幕府の実権を握るが、信濃国の場合には、建仁(けんにん)三年(一二〇三)に比企能員が北条時政に謀殺(ぼうさつ)され、その守護職は北条氏が世襲した。善光寺と北条氏との関係がはっきり知られるのは、信濃支配が本格化した三代執権(しっけん)の泰時(やすとき)のころからで、造営事業を当初、中心となって担当したのは泰時の弟の朝時(ともとき)(名越(なごえ)氏の祖)であった。ただ、このときに造営された堂宇(どうう)については、かならずしもはっきりしない。室町時代の『善光寺縁起(えんぎ)』には金堂と如来御宮殿(くうでん)(厨子(ずし)か)とあるが、この記事は文永(ぶんえい)五年(一二六八)の全焼後の再建と混同されている形跡があるし、かりに金堂であったとしても、建久二年(一一九一)以後にふたたび火災にあったための造営なのか、部分的修造にすぎなかったのかは判然としない。しかし、『吾妻鏡』によれば、落慶供養(らっけいくよう)は朝時の死後の寛元(かんげん)四年(一二四六)、遺言によってその子息の光時らを大檀越(おおだんおつ)として、かなりの規模でおこなわれたことが知られる。
名越朝時が北条氏一門のなかでも、とりわけ善光寺如来に帰依(きえ)していたことは、その別邸を構えた鎌倉名越の地に、仁治(にんじ)三年(一二四二)以前に、新善光寺が建てられていた(『北条九代記』)ことからもうかがえる。同氏はこのほかに、最後まで守護職を相伝していた越中国(富山県)の放生津(ほうじょうづ)(新湊市)にも新善光寺を建立していた形跡がある。
なお、名越氏は四代将軍の九条頼経に近侍(きんじ)し、当時は北条得宗(とくそう)家に比肩(ひけん)しうる存在と目されていたが、善光寺供養を終えた二ヵ月後に、光時らが執権時頼から謀反(むほん)のとがをうけて失脚するという事件(宮騒動)が起こった。これ以後、善光寺の外護(げご)者は得宗家、さらには後述のように金沢氏に移る。建長(けんちょう)五年(一二五三)信濃守護の北条重時(泰時・朝時の弟)を檀越としておこなわれた供養は、鎌倉時代初頭から継続されていた修造事業の総仕上げとしての意味をもつもので、ある意味では得宗政権の確立を象徴するできごとでもあった。
善光寺の所領としては、院政期ごろまでに周辺の国衙(こくが)領とみられる河居(かわい)・馬島(ましま)・村山・古野(ふの)の四ヵ郷があった(『吾妻鏡』)が、鎌倉時代になって新たに寄進された所領として、つぎのようなものがある。
まず、北条泰時は晩年の延応(えんおう)元年(一二三九)に、小県郡の小泉荘(上田市)の水田六町六反を不断念仏料所(ふだんねんぶつりょうしょ)として施入(せにゅう)している(『吾妻鏡』)。故人となった歴代の将軍と政子をはじめとする北条氏一族の菩提(ぼだい)を弔うのが目的で、六町を念仏衆一二人に配分し、六反を灯明(とうみょう)料にあてること、そして僧侶の補任(ぶにん)方法や座列のことなどについても、こまごまと七ヵ条にわたって定めてある。五代執権時頼も弘長(こうちょう)三年(一二六三)、善光寺の北東に隣接した水内郡深田(ふかだ)郷(箱清水)を買得して、このうち田地一二町を金堂における不断経と不断念仏の用途として寄進した(『吾妻鏡』)。ここでも、経衆・念仏衆をおのおの一二人で結番(けちばん)(交代勤仕)させることや、精勤を重視して器量の仁(じん)を選ぶべきことなど指示している。このほかに知られる所領として、四代将軍頼経の実父、九条道家が晩年の建長二年(一二五〇)に処分した家領のなかに、不断念仏料としてみえる水内郡千田荘(芹田)がある(九条家文書)。
源頼朝や北条氏歴代の信濃善光寺にたいする保護と崇敬(すうけい)は、全国の地頭(じとう)・御家人(ごけにん)らに善光寺信仰を普及させるのに、きわめて大きな役割を果たした。この時代に善光寺如来への信仰を受容したのは、これらの武士層が中心であったといってさしつかえない。