地頭・御家人と善光寺信仰

522 ~ 526

名越(なごえ)氏が失脚したあと、北条氏一門のなかで善光寺信仰とのかかわりが顕著になるのは金沢(かなざわ)氏であった。

 金沢氏が早くから善光寺信仰を受容していたことは、泰時・朝時・重時らの弟にあたり、金沢氏の祖とされている実泰(さねやす)の墳墓が「善光寺殿御廟(ごびょう)」とよばれていた(『称名寺結界絵図』)ことから知られる。またほんらいは名越氏が檀越であったとみられる鎌倉の名越新善光寺の経営にも関与するようになった形跡がある。たとえば、延慶(えんぎょう)三年(一三一〇)当時、名越新善光寺の下手に金沢実時の所有地が存在していた(東寺百合(とうじひゃくごう)文書)し、元徳(げんとく)元年(一三二九)、名越新善光寺の派遣した「関東大仏造営料船」に実質的にかかわっていたのは金沢貞顕(さだあき)であった(金沢文庫古文書)。また元徳二年、京都の一条大宮に新善光寺が建立されるにあたり、金沢貞顕(さだあき)が寺地の一部を寄進しているし(新善光寺文書)、金沢氏が地頭職を有したり称名寺とかかわりのあった所領内には、いわゆる新善光寺が建立されたり、従来からある寺院に善光寺式如来が安置されたりする例(広義の新善光寺)がしばしばみられた。陸奥国遠田(とおだ)郡平針(ひらばり)郷(宮城県遠田郡小牛田(こごた)町平針)には建長六年(一二五四)までに(金沢文庫蔵浄土三部経大意識語)、また上総(かずさ)国天羽(あまは)郡佐貫(さぬき)郷(千葉県富津市佐貫)北方にはおそくとも嘉元(かげん)年間(一三〇三~〇六)までに新善光寺が建立されている(金沢文庫蔵題未詳聖教識語)が、前者の平針郷は早くから北条氏所領であったことが知られるし、後者の佐貫郷は称名寺僧の活動がひんぱんにみられた地域であった。

 このほか、最近、千葉県市原市櫃狭(ひつば)の満光院の本尊として伝来した善光寺式如来像の背面陰刻銘(いんこくめい)に、文永十一年(一二七四)に鎌倉大仏住侶(じゅうりょ)寛蓮が、その勧進を担当した浄光(じょうこう)上人と亡き両親の供養のためにつくらせたという意味のことが書かれていることが見いだされたが、この満光院の所在地は、明らかに金沢氏所領として知られる上総国土宇(つちう)郷(市原市)もしくは与宇呂保(ようろほ)(同)の領域内に比定されている。こうした点からみて、金沢実時の持仏堂に起源を有し、叡尊(えいそん)の鎌倉下向以後、しだいに諸宗兼学の律院として発展していった金沢称名寺(しょうみょうじ)(横浜市)は、いっぽうで善光寺信仰の拠点的な寺院としての役割も果たしていたと考えられる。鎌倉時代の数少ないまとまった善光寺縁起である『善光寺如来事』が称名寺に伝わり、しかもこれを所持していた了禅は信濃善光寺をじっさいに参詣していたらしい。金沢文庫古文書によると、このほかにも称名寺関係の僧侶で、御堂供養に招かれたり、金沢氏領の太田荘(石村郷・大倉郷、豊野町)の現地経営のために下向したついでに立ち寄ったりするものも多かった。二代目の長老明忍房釼阿(けんな)もみずから善光寺参詣をとげていたことが知られる。


写真12 満光院の善光寺式如来像の銘文
(千葉県市原市櫃狭)

 北条氏以外の有力御家人で、善光寺信仰を受容したものといえば、まず下野国の宇都宮氏があげられる。頼綱(よりつな)(実信房蓮生(れんじょう))と朝業(塩谷を名字とする。信生房(しんしょうぼう))の兄弟は、ともに法然房(ほうねんぼう)源空の弟子で京都西山を本拠にした善恵(ぜんえ)房証空(西山義(せいざんぎ)の祖)の弟子となっていたが、師の証空には善光寺参詣をしたとの伝承があり(四十八巻本『法然上人絵伝』)、朝業も元仁二年、麻績御厨(おみのみくりや)(東筑摩郡麻績村)に流罪となっていた旧友の伊賀光宗を見舞いがてらに、善光寺を訪れて参籠(さんろう)したことは前に述べた。また、頼綱の子泰綱(実相房順蓮)は、嘉貞(かてい)三年(一二三七)、証空と相談して大和当麻寺(たいまじ)(奈良県北葛城郡当麻町)の「当麻曼陀羅(まんだら)」の模写本を絵師播磨法眼澄円(はりまのほうげんちょうえん)につくらせ、信濃善光寺の曼陀羅堂や宇都宮(二荒山(ふたらさん)神社)神宮寺(栃木県日光市)に奉納した(『当麻曼陀羅疏(そ)』)。宇都宮には新善光寺もこの時代に建立されたらしいが、これは慶長(けいちょう)二年(一五九七)に廃寺になっている。親鸞(しんらん)の弟子真仏の持仏堂で、善光寺式如来を本尊とした高田如来堂に起源を有し、のちに浄土真宗高田派の本山となる下野専修寺(せんしゅうじ)(栃木県芳賀郡二宮町)を一貫して外護したのも宇都宮氏(芳賀(はが)氏)であった(専修寺文書)。

 宇都宮氏の一族で常陸(ひたち)国(茨城県)の守護を勤めた小田氏や宍戸(ししど)氏にも、善光寺への信仰が顕著にうかがえる。茨城県新治(にいはり)郡八郷(やさと)町太田に新善光寺が現存するが、ここは鎌倉時代に小田氏の所領であった常陸国北郡太田郷に該当する。『小田系図』によると、八田知家(宇都宮朝綱の弟)の子小田知重(ともしげ)は法名を蓮定(れんじょう)といい、「新善光寺殿」ともよばれているから、すでに知重の代に建立されていた可能性もある。文永十二年(一二七五)に知重の孫の時知(法名玄朝)は、この新善光寺に大日如来坐像を寄進したことが知られるが(笠間市上加賀田大日堂の大日如来像膝下墨書銘(しっかぼくしょめい))、『沙石集(しゃせきしゅう)』の説話に登場する「常州北郡不断念仏堂」はこの太田新善光寺がモデルになったとされている。


写真13 太田新善光寺の山門
(茨城県新治郡八郷町)

 宍戸氏も同様に新善光寺を建立したが、その跡地が現在の茨城県西茨城郡友部(ともべ)町平町にあった宍戸氏の居館跡に隣接して残されている。この宍戸新善光寺は明治初年に廃寺となったものだが、文禄(ぶんろく)元年(一五九二)に檀越の宍戸氏が佐竹氏に敗れて常陸国真壁(まかべ)郡の海老ヶ島(えびがしま)城(茨城県真壁郡明野(あけの)町)に退いたさい、同地にも移され、もうひとつの宍戸新善光寺となった。明野町松原に現存する、通称海老ヶ島新善光寺とよばれるのがこれである。なお、宍戸新善光寺については、「八田知家の七男知勝」で、「一遍(いっぺん)の弟子、解意阿弥陀仏観鏡」を開基とする説もあるが、知勝なるものは実在の人物とは思われず、近世初頭に浄土宗から時宗に改宗したときに創作されたとみられる話で、史実ではなかろう。

 宇都宮氏と並ぶ、下野国の有力御家人であった小山(おやま)氏一族も、本拠の小山荘(栃木県小山市)内に新善光寺を建立していた。宗俊本の『遊行(ゆぎょう)上人縁起絵』によると、永仁(えいにん)五年(一二九七)遊行二代の他阿真教(たあしんきょう)が当寺を訪れ、如来堂に逗留(とうりゅう)したことが記されている。当時の寺地は、現在地(小山市卒島(そしま)字町屋)よりも西方約数百メートルのところ、男体山を背後に望める景勝の地にあった。ここには「道場」の字名も残り、かつては掘割りの一部や石造物も確認できたといわれるが、今はまったく水田化している。ところで、小山氏一族のなかで、熱烈な善光寺信仰の持ち主として知られるのは、善光寺の地頭に補任された長沼宗政であろう。このポストは承元(じょうげん)四年(一二一〇)に本所園城寺(おんじょうじ)(滋賀県大津市)の口入(くにゅう)で停止されたものだが、『吾妻鏡』によると「生身(しょうじん)阿弥陀如来」との結縁(けちえん)のために、みずから望んで補任されたとある。かれは摂津(せっつ)(大阪府)守護、のちには淡路(兵庫県)守護も兼ねた有力御家人であり、頼朝の側近で下野守護の小山朝政(ともまさ)の弟であった。

 武士社会における善光寺信仰の隆盛を示すものとしては、ほかに善光寺式如来を刻んだ初期の板碑(いたび)や、武士自身が作詞・作曲にかかわり、宴席で歌われた早歌(はやうた)(宴曲)に「善光寺修行」「同次」の連作二曲があること、さらに、源延に代表されるように、いわゆる「善光寺聖(ひじり)」そのものにも、武士出身者が多かったとみられる点などがあげられる。