旧仏教系の寺院で寺僧の監督、教学の振興、あるいは寺領の管理などの寺務を担当した長官を、一般に別当(べっとう)といった。善光寺の場合、園城寺の末寺となって以来、寺門派の僧侶のなかから別当が補任(ぶにん)されるようになっていた。したがって、別当といっても、通常は善光寺内に居住していたわけではない。嘉禎(かてい)三年(一二三七)の五重塔完成供養のさいに、別当勝舜(しょうしゅん)が臨席した例が知られるが(『吾妻鏡』)、こうした特別の行事のときを除けば、信濃まで下向(げこう)することはほとんどなかったと思われる。
別当が不在の善光寺で、寺僧を代表し事実上の寺院経営にあたるために設けられたのが、権別当(ごんのべっとう)である。権別当は寺内居住僧の諸職(しき)の補任(ぶにん)権をもついっぽうで、この権別当自身は本寺にいる別当によって任免されるものであった。権別当と中央の別当との関係を示す逸話が、『東巌慧安(とうがんえあん)禅師行実(ぎょうじつ)』にみえる。これによると、京都聖護院(しょうごいん)の執事(しつじ)であった静成(じょうせい)法印が善光寺別当に在任中、左衛門尉家重を代官として遣わし寺務を取らせたところ、家重が上京することになったので、かわりに大和法橋(ほっきょう)なる僧を雑掌(ざっしょう)として派遣した。ところが、現地に赴いた大和法橋は年貢の未進をしたり、賄賂(わいろ)をとって勝手に権別当を別人に変えてしまうなどの悪政をおこなったため、前権別当に訴えられて、雑掌を解任されたとある。
この事件は文永五年(一二六八)ごろのことらしいが、別当と権別当との連絡役として代官や雑掌が派遣され、当時の善光寺はかれらによって統轄(とうかつ)されていたことがわかる。その代官が俗人(ぞくじん)(武士)である点や、雑掌というものがほんらいは荘園の年貢徴収にかかわる役職である点から、園城寺と善光寺の本末関係が、まったく荘園制支配に準じるものであったことをよく示している。善光寺に当初、地頭がおかれたのもこのためである。また善光寺別当が法印の僧綱位(そうごうい)を有し、園城寺の有力門跡(もんぜき)で法親王が代々入室した聖護院(しょうごいん)(院主は園城寺長吏と熊野三山検校(けんぎょう)を兼任)の執事を兼ねていたことから、寺門派内部でもかなり実力のある憎が任命される地位であったことがうかがわれる。それだけ善光寺が、経済的得分の対象として園城寺から注目されていたことを物語るものであろう。
歴代の善光寺別当を勤めた僧名については、その全貌(ぜんぼう)は不明である。断片的にその名が知られるのは、平安期では頼救(らいきゅう)・清円・聖巌(せいがん)、鎌倉期では勝舜・静成のほか、正和(しょうわ)二年(一三一三)六月当時、その在任が知られる源基くらいである(甲斐善光寺梵鐘銘(ぼんしょうめい))。南北朝期以降では、正長(しょうちょう)元年(一四二八)に没した通覚が善光寺・平等院(京都府宇治市)・粉河寺(こかわでら)(和歌山県那賀郡粉河町)の各別当職を歴任したという記事がある(『三井続灯記』)。これにより園城寺による支配は少なくとも一五世紀前半までつづいていたことがわかる。
つぎに、現地の権別当のもとで寺内組織はどのようになっていたかをみよう。中世の権門(けんもん)寺院は一般に、教学を専修し寺内の要職に就いた学侶(がくりょ)層と、諸堂に付属しつつもろもろの雑役に従事した堂衆(どうしゅ)という二大身分によって構成されていた。善光寺の場合も、建長五年(二一五三)の修造供養のときに、「当寺学頭」の「大夫竪者(じゅしゃ)維真」が導師を勤めたとあり(『吾妻鏡』)、この学頭は学侶層の統率者の意味だから、学侶が存在したことは明らかである。弘長(こうちょう)三年(一二六三)北条時頼が深田郷を寄進したとき、不断経衆と不断念仏衆が各一二人設置された。このうち、権別当俊範以下の不断経衆はむろん学侶とみてよい。それにたいして、検校俊然に率いられた念仏衆の構成メンバーが、おそらく堂衆ではなかったかと思われる。善光寺の堂衆の拠点は念仏堂で、これはかつて、現在の城山小学校の敷地に建てられていた。
善光寺と密接なかかわりをもつ僧侶として、常住の僧のほかに造営事業にさいして費用を調達するために、臨時に任命される勧進職(かんじんしき)があった。意外に多く記録にとどめられていて、嘉禎三年、寛元(かんげん)四年(一二四六)、建長五年の造営の勧進上人が、それぞれ浄定(じょうじょう)上人、親基上人、勧養(かんよう)坊であったことが知られる(いずれも『吾妻鏡』)。勧進上人は一般に禅律(ぜんりつ)を中心とする遁世僧(とんぜそう)が起用されることが多かった。このほか各地に拠点をおきながら、善光寺に参詣したあと、一定期間寺内にとどまって、さまざまな活動をした僧尼(そうに)たちがいた。いわゆる「善光寺聖(ひじり)」であるが、これについては次項で取りあげたい。