「善光寺縁起」と女人救済

528 ~ 531

鎌倉時代には、宗教者だけでなく、一般の貴族層や武士階級にも善光寺信仰が受容されるようになっていたが、かれらにその霊験(れいげん)を宣伝するのに大きな役割を果たしたのが「善光寺縁起」であった。最古の縁起は『扶桑略記(ふそうりゃっき)』に引用された、一一世紀後半に成立したものだが、鎌倉時代のあいだにその内容はしだいにふくれあがっていく。鎌倉時代にできた縁起で、いちおうまとまった形で残るものは、今のところ二つが知られるだけである。ひとつは金沢文庫(横浜市)に所蔵されるもので、外題(げだい)に『善光寺如来事』とある。奥書がなく成立年代や書写年代は不明だが、表紙に「了禅(りょうぜん)」という記載があり、金沢称名寺を中心に活動した律僧の了禅が所持していたものであったことがわかる。


写真14 金沢文庫に架蔵される『善光寺如来事』の冒頭部分
(横浜市金沢区称名寺蔵、神奈川県立金沢文庫保管)

 もうひとつは、東大寺所蔵の『普通唱導集』に引用されている『信濃国善光寺伝記』と題するものである。序文によって永仁(えいにん)五年(一二九七)に筆録したことが知られる。平安時代の縁起と鎌倉時代の縁起との、内容上のもっとも大きな違いは、後者には女人救済説話が明確に取り入れられていることである。前者の縁起のモチーフは『請観世音経』の月蓋長者(がっかいちょうじゃ)説話にもとづいたもので、この経典(きょうてん)では救済の対象となったのが不特定多数の村人であったのにたいして、『善光寺如来事』では月蓋長者の「寵愛(ちょうあい)する娘」となっているのである。さらに、『信濃国善光寺伝記』ではこの娘に「如是(にょぜ)」という名前があたえられている。後世、善光寺如来の由来を説明するさいに、なくてはならぬ人物となる如是姫がここにはじめて登場するのである。「如是」とは、経典では「このように」という意味で使われる常用語だが、これをいわば固有名詞として女性名に転用したのであった。


写真15 如是姫像
(長野駅善光寺口)


写真16 本證寺に伝わる『善光寺如来絵伝』の善光寺の場面
(愛知県安城市)

 平安末期までの善光寺の吸引力となったのは、「日本最古の仏」であり「生身(しょうじん)の阿弥陀」であるとする二つのキャッチフレーズであったが、鎌倉時代に入ると、それらに加えて、多くの経典類で往生できないと説かれ、また現実に戒律(かいりつ)(不邪淫戒(ふじゃいんかい))の建前から都鄙(とひ)の旧仏教系の寺院から排除されていた女性たちを、善光寺如来が積極的に受け入れて救済する、ということを宣伝しはじめたのである。千手(せんじゅ)(平重衡(しげひら)の愛妾(あいしょう))や虎御前(曾我祐成(そがのすけなり)の愛妾)の参籠(さんろう)伝承が早くからあり、北条政子も参詣の宿願を抱いていたことが知られるように、鎌倉時代の参詣者の特徴は最初から、武士階級のなかでもとりわけ女性が多かったとみられる点だが、これは以上のような、善光寺信仰の布教のありかたと密接にかかわっていた。

 女人救済思想は、平安末期には一部の旧仏教系の僧侶のあいだで説かれはじめていたが、これが広範に普及するのは、いわゆる鎌倉新仏教、とりわけ念仏系の僧侶たちの活動によるところが大きい。善光寺関係の僧尼たちが、当時としてはまだ斬新(ざんしん)であった女人救済を説いた背景には、実質的には、善光寺が官寺の系譜を引く古代的寺院から、幅広い階層の人びとの救済をめざす中世的寺院へ転生した事実を反映しているといってよいだろう。

 そのことは縁起の多様化していく点からもうかがうことができる。当初の「善光寺縁起」は漢文体であったが、しだいにそれを絵画化した『善光寺如来絵伝』が作成されるようになるのはその一例である。三河(愛知県)の妙源(みょうげん)寺(岡崎市)や本證寺(安城(あんじょう)市)に所蔵されるものを代表に、全国に三〇点近くの遺品が知られるが、いずれも掛軸形式になっているから、聴衆の前で絵解きをするのに用いたことは明らかである。じっさいの絵解きの光景は『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』などによって知られるが、絵解きは文字の読めない人びとにも善光寺如来の功徳(くどく)を理解することを可能にさせたから、これは善光寺信仰を貴族や武士層のみではなく、民衆のあいたに広げるのにも大きな役割を果たした。このほか、南北朝時代までには漢字片仮名交じりの談義用のテキストや、絵入りで平仮名のものなども作成されたが、後者は、貴族社会でも基本的には仮名文字を教養としていた女性たちの需要にこたえるためのものであった。