善光寺の霊験を信じた人びとが、その信仰のあかしとして、信濃善光寺の本尊の模刻像を造立(ぞうりゅう)安置するために、各地に建立したのが新善光寺であった。史料によって、実在したことが確認される新善光寺は、いまのところ鎌倉期に約二〇ヵ寺、南北朝時代に約八ヵ寺ほどあるが(巻末付録(1)参照)、南北朝時代に所見されるものも、じっさいの建立時期は鎌倉時代にさかのぼりうるのではないかとみられる。こんにち、新善光寺(もしくは単に善光寺)を正式な寺号とする寺院が、全国に約一二〇ヵ寺ほどあるが、その大部分は近世以降、場合によっては近代になってから新善光寺と称するようになったもので、中世の史料に所見のある新善光寺はむしろ、現在では所在地さえはっきりしないものが多く、まれに現存するものでも、当初の位置とは異なっている場合が多いことに注意しなければならない。
新善光寺については、武士層が自己の所領内に建立したものが目立っているが、巻末付録(1)によってさらに、信濃国佐久郡大井荘(大井氏)、下野国那須(なす)郡那須荘(那須氏、栃木県大田原市付近)、陸奥国遠田郡平針郷(北条氏)、前出讃岐(さぬき)国(香川県)那珂(なか)郡櫛無(くしなし)保(島津氏、善通寺市櫛梨町)、常陸国茨城郡茨城村(大掾(だいじょう)氏、茨城県東茨城郡茨城町)、肥後国(熊本県)託麻(たくま)郡神蔵(かみくら)荘(詫磨氏、熊本市)、出羽国置賜(おきたま)郡屋代(やしろ)荘(長井氏、山形県東置賜郡高畠町付近)などに所在した新善光寺が、それぞれの所領の地頭が檀那(だんな)であったか、もしくは建立に関与していたのではないかと想定される。このことから、鎌倉期の新善光寺の檀那は大部分が在地領主級の武土層と考えられる。寺院を新たに建立するという事業は相応の土地や財力を必要としたことからしても、それはむしろ当然であったともいえよう。そのことは同時に、鎌倉時代に善光寺信仰が全国的に流布した背景には、善光寺如来の霊験を唱導をしながら各地を遍歴した宗教者(いわゆる善光寺聖(ひじり))の活動とともに、かれらを外護(げご)しつつ善光寺信仰を受容した地頭・御家人の存在があったことを示唆している。善光寺信仰の全国的展開は、鎌倉幕府政権のもとでの地頭領主制を媒介としていたとみることができるといっても過言ではないのである。
巻末付録(1)に掲げた新善光寺のいくつかを事例にして、当時の新善光寺の特徴や存在形態、とくに立地上や宗派性の特質といったものをみておこう。
信濃国佐久郡大井荘落合に所在した通称「落合新善光寺」は現在の佐久市鳴瀬(なるせ)落合にあたり、当地にある時宗寺がその法灯を継ぐ寺とされる。史料でわかる限りでは鎌倉の名越新善光寺についで二番目に古い新善光寺だが、その建立の経緯を、現在南佐久郡小海町松原湖畔(はん)の諏訪神社に残されている、同寺旧蔵の梵鐘(ぼんしょう)の陰刻銘によって知ることができる。それによると、同寺は寛元(かんげん)二年(一二四四)七月に、まず本尊となる阿弥陀如来像ができ、ついで同八月には脇侍(きょうじ)の観音・勢至(せいし)両菩薩ができて、ここに一光三尊像が完成、ついで建長(けんちょう)元年(一二四九)までには主要伽藍(がらん)が完成したらしく、この年から阿弥陀仏が勧進(かんじん)となって不断念仏が始まったとある。弘安(こうあん)二年(一二七九)に法阿弥陀仏および念阿(ねんあ)・道空が勧進を担当し、源光長が「大旦那(おおだんな)」となり、大工伴長によって製作された梵鐘が施入されたことが知られるのである。大旦(檀)那は発願者で、かつ大口寄付者、の意味だが、その源光長は甲斐の武田氏や小笠原氏と同族の大井光長のことで、かれは新善光寺の建立された現地の大井荘の地頭であった。
勧進というのは人びとに唱導しつつ寄付を募る行為をさすが、これを担当したのは特定の寺院に常住する学僧ではなく、一般に禅律僧や念仏聖(ひじり)などの遁世僧が多かった。勧進聖の役目は大檀那のほかに、その所領内あるいは近隣諸郷で幅ひろく勧進活動をおこなうことであったが、それは単に不足額を徴収するためだけではなく、農民層をふくめた幅ひろい階層の人びとからも寄付を募り、なるべく多くの人びとを善光寺如来に結縁(けちえん)させることで、かれらを救済の対象に預からしめようとする配慮からであった。
このように、当時は造寺造仏にさいしては、檀那・勧進聖および直接の制作担当者としての職人、の三者がかかわっていたが、その三者ともに名前が判明する点で、落合新善光寺の事例ははなはだ貴重である。職人については、善光寺式如来像のような金銅仏の場合、その製作には一般に鋳物師(いもじ)が担当した。
落合新善光寺が建立された場所は、千曲川とその支流の湯川の合流点に近いところに位置している。「落合」という地名は「河合」などと同様に、もともと二つの川の合流地点を意味することばである。こうした地形のところは水害の起きやすい場所ではあるが、そのいっぽうで物資が集積されるため、人びとの往来が多く市が開かれたりした場所でもあった。事実、この地は「建久(けんきゅう)道」とよばれる鎌倉古道が通っていたとの伝承があるが、近世にはすぐ北に中山道(なかせんどう)の塩名田宿が位置していた点からすると、その可能性はきわめて高いだろう。古くから千曲川の渡河点に位置する交通の要衝(ようしょう)にあたり、大井荘内における商業交易の一中心地でもあったと推定される場所であった。
巻末付録(1)に掲げた鎌倉・南北朝期に所見のある新善光寺には、同様の立地条件を満たす事例が多い。その代表的なものは、武蔵国足立(あだち)郡の川口(かわぐち)新善光寺である。この寺は現在も東京都と埼玉県との境をなす荒川の河川敷に立地しているが、中世にはこの川は入間(いるま)川といい、武蔵野を横切る大河(利根川支流)のひとつで、鎌倉から上野・信濃・越後、さらには陸奥(むつ)方面に向かう幹線道路の渡し場がこの川口(埼玉県川口市)にあり、対岸の豊島(としま)郡岩淵(東京都北区)とともに、多数の遊女たちも居住した宿(しゅく)としてにぎわったところである。川口新善光寺は以前から、正応(しょうおう)二年(一二八九)二月に川越入道後家尼に導かれて、善光寺参詣に向かった『とはずがたり』の作者、二条(久我(こが)雅忠娘)たちが旅の出発点とした寺ではなかったかとみられていたが、最近発見された寛文(かんぶん)九年(一六六九)の「仁王門再興記木札(もくさつ)銘」によって、正応二年八月に同寺の仁王門ならびに仁王像が造立されていたことがわかり、二条が訪れたころにちょうど建立されつつあったことが明らかとなった。河川の渡河点に建てられた例としては、ほかに出羽国置賜郡屋代荘河井郷にあった堂森新善光寺(山形県米沢市万世町堂森)があり、ここも羽黒川と天王川の合流点にあたっている。
道路の分岐点や十字路などの陸上交通の要地と思われる地点に位置したものとしては、まず近江国栗太(くりた)郡高野郷の栗東新善光寺(滋賀県栗太郡栗東(りっとう)町林)があげられよう。同寺は、境内に残る石造宝篋(ほうきょう)印塔銘によって弘安三年(一二八〇)までに建てられたと推定されるが、この付近は東海道と東山道の分岐点(追分(おいわけ))に位置し、しばしば戦場ともなった、東西交通の要衝を占める地点で、現在も国道一号、八号、名神高速道路などが交差している。北条氏領であった陸奥国遠田郡平針郷の新善光寺も、東山道と出羽および石巻・三陸海岸方面を結ぶ父通路とが交差する十字街にあたる場所にあったが、比定地の小牛田(こごた)町は、近代鉄道交通の要衝としても知られている。肥後国玉名郡臼間野(うすまの)荘小原(こばる)村(熊本県玉名郡南関町小原)の小原善光寺も、筑・肥国境の要地で古代西海道(さいかいどう)の時代から駅家(うまや)や関所が設けられ、中世以降もたびたび戦陣がおかれた交通上、軍事上の要地に所在していた。このほか、下野国那須郡那須荘の黒羽(くろばね)新善光寺(栃木県黒羽町余瀬に寺跡がある)、越前国坂井郡の赤坂新善光寺(福井県丸岡町赤坂に寺跡がある)、播磨(はりま)国揖保(いぼ)郡鵤(いかるが)荘の新善光寺(兵庫県揖保郡太子町)なども、中世の幹線道路沿いに立地したことが確認される。
中世の、河海の港に臨む地に所在したものの代表として、越前国坂北郡河口荘本荘郷の中浜新善光寺がある。中浜は現在の福井県坂井郡芦原(あわら)町中浜にあたる。中世には興福寺・春日社領(のち大乗院領)の河口・坪江(つぼえ)荘の年貢積み出し港地として栄えた三国湊(みくにみなと)(福井県坂井郡三国町)に近く、九頭竜(くずりゅう)川の支流、竹田川と兵庫川の合流点に面した場所で、当時は河口荘内の年貢集積地のひとつではなかったかとみられる場所である。越中国射水(いみず)郡曽根保(そねほ)の放生津(ほうじょうづ)(富山県新湊市)は三国湊とともに、北陸を代表する良港だが、ここにかつて所在した禅興寺(寺跡は富山県新湊市三日曽禰(みっかそね)善光寺に比定される)も、前にもふれたように当初は新善光寺のひとつであったことが推測される。鎌倉時代の放生津は、最後まで越中守護職を相伝していた名越氏が守護所を設置したところであり、付近には遊行二代の他阿真教が創建した時宗の報土寺や、その他各派の寺院が林立していた都市的な場であった。都市といえば、常陸国茨城郡茨城村の仏国山新善光寺(茨城県石岡市)が所在したのは常陸国府の地であり、越前(福井県)国府にあたる越前国南条郡の府中新善光寺(福井県武生市京町)と同様に、地方都市に建立された新善光寺の例にふくめられる。鎌倉名越新善光寺や京都一条大宮新善光寺などは大都会の新善光寺ということも可能だろう。
このように、この時代の新善光寺は、交通の要地や都市的な場に立地していたことが第一の特徴としてあげられるが、それは善光寺如来が広範な人びとを救済する流行仏であったという性格をよく示しており、その背景には新善光寺を檀那として建立した在地領主層が、自分たちだけでなく、周辺の農民や往来する職人などをふくめた幅ひろい階層をも救済の対象にしようとした、憮民(ぶみん)的な意図が存在したことを物語っている。
つぎに、新善光寺の宗教的性格にふれておくと、善光寺信仰の特質が個々の教団の枠を越えた普遍性をもち寛容性にあったことを反映して、寺自体も新旧あらゆる宗派におよんでいた点を指摘しうる。宗派といっても、当時はまだ全国組織としての教団といえるほどのものはほとんどなく、しかも現行の名称は戦国期以降に本格化する教団編成過程で定まったものが多い点などに注意する必要があり、ここでは便宜的名称を使うにとどめておきたい。当然のことながら念仏系の寺院が圧倒的に多く、なかでものちに時宗系の念仏寺院として把握されていたものに信濃の落合新善光寺、下野の黒羽新善光寺、越前の赤坂新善光寺、下野の小山(おやま)新善光寺などがあった。同じ念仏系でも名越新善光寺は当初は諸行本願義に属し、叡尊(えいぞん)の鎌倉下向以後に称名寺などとともに律院化した過程が知られる寺院で、いわば持戒(じかい)念仏系といってよいものだが、陸奥の平針新善光寺や上総(かずさ)の佐貫(さぬき)新善光寺などもここにふくめられる。はじめから律宗寺院として建立されたと思われるものに、西大寺流では越中の放生津禅興寺があり、北京律(ほっきょうりつ)では山城の一条大宮新善光寺(京都市)がある。唐招提寺流でも越前に新善光寺を建立していたことが知られる。
旧仏教系に属したと思われるものには、讃岐国那珂郡櫛無保の如意谷善光寺や紀伊国那賀郡名手(なで)郷の粉河寺(こかわでら)善光院(和歌山県那賀郡粉河町の粉河寺門前に善光寺として現存)があり、前者は真言密教系、後者は天台宗寺門派系とみられる。曹洞禅では、道元の弟子義雲が六十巻本『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を書写した前出の越前の中浜新善光寺があるほか、肥後の小原善光寺も北条貞時が招いた宏智派の東明慧日(とうみょうえにち)が最初に住持した寺だから、やはり禅宗に属した可能性が高い。なお、善光寺信仰が当時の仏教界全体で熱狂的に迎えられたなかで、唯一日蓮だけは善光寺如来を釈迦如来を偽ったものだとして、激烈にそれを排撃したことで知られる(『日蓮聖人遺文』)。法華宗系に属する新善光寺が後世を通じてほとんど皆無である点は、その事実を反映することとして興味深い。