残存する善光寺仏とその問題点

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これまで中世に存在した新善光寺に着目して述べてきたが、これとは別にこんにち、善光寺式如来像が中世の作例だけでも、二〇〇体以上残されていることが注意される。

 これらのなかには、文献史料にはあらわれなくても、かつて存在した新善光寺の本尊として造立されたものも、当然ふくまれていようが、かならずしもすべてがそうではなかった点に注意する必要があろう。たとえば、広島県福山市鞆(とも)の浦(うら)にある安国寺に本尊として安置されている阿弥陀三尊像は、木造でしかも台座・光背をふくめた総高は三メートルにもおよぶ等身像で、通例の善光寺式如来の模刻像が数十センチメートルの小金銅仏であるのとはいちじるしく異なっている。この像の胎内には多数の文書が納入されていて、元来は金宝(こんぽう)寺なる寺の本尊としてつくられたことが記されている。金宝寺は安国寺の前身と考えられる寺院で、南北朝期に足利尊氏が一国一寺の安国寺を設置したさい、備後(びんご)(広島県)安国寺に指定されてからこの寺号が定着したらしい。したがって、善光寺式如来像が安置されても、新善光寺という寺号ではよばれなかったことを示す例で、じっさいにはこうしたタイプの寺院も多かった。金宝寺の如来像は在地領主とみられる平頼影が大檀那となり、空蔵房寛覚を大勧進として、大仏師覚尊が製作したものだが、勧進帳によって周辺の武士層だけでなく、漁師・船乗りや明らかに農民と思われる人びとからも奉加(ほうが)を募っていたことが確認される。


写真19 備後安国寺の本尊となっている等身木造の善光寺式如来三尊像
(広島県福山市鞆の浦 安国寺蔵)

 ところで、問題は現存する善光寺式如来像のなかには、かならずしも安国寺(金宝寺)像のように、当初安置された寺院にそのまま伝来したとは限らないものも多いとみられる点である。たとえば埼玉県比企(ひき)郡嵐山(らんざん)町大蔵にある向徳寺の本尊として伝来する善光寺式三尊像は、宝治三年(一二四九)に小代(しょうだい)氏が檀那となって鋳造された旨がその銘文に記されている。関東武士による造立が知られる典型的な例だが、小代氏の本領の小代郷はこんにちの東松山市正代(しょうだい)周辺であったから、ほんらいは別の寺院に安置されていたものとみるべきだろう。文永三年(一二六六)出羽国最上郡府中庄外郷(山形県天童市清池)の石仏寺にあった善光寺式三尊像も、現在中尊は横浜市港南区最戸町の千手院に、脇侍(きょうじ)のうち観音立像は千葉県安房(あわ)郡天津(あまつ)小湊(こみなと)町の清澄寺に所蔵されているが、こういった例は枚挙にいとまがない。移動した背景としては、廃寺後の流失、「善光寺聖」による唱導のための運搬、後世の盗難といったように、さまざまな事情が考えられるが、いずれにしても、善光寺式如来の模刻像の残存例の多さは、そのまま善光寺信仰の隆盛を物語るものとはいえ、こんにちの分布状況が中世のそれとは重ならないことに十分注意しなければならない。なお、銘文によって中世に造立されたことが判明するものは、いまのところ全国に約三十数体あるが、それは巻末の付録に掲げたとおりである。