鎌倉時代に善光寺信仰が全国的に流布した背景として、ひとつにはそれを受容した地頭御家人を中心とする在地領主級の武士層の存在があったが、もうひとつかれら領主層に善光寺如来の霊験を説きつつ、諸国を遍歴した多数の僧尼たちの役割を無視できない。こうした僧尼の大部分は、古代以来仏教界の主流をなしていた官僧とは無縁で、聖(ひじり)とか遁世僧とよばれた半僧半俗の宗教者であった。いわゆる善光寺聖である。もっとも、「善光寺聖」という用語は鎌倉時代にはまだ定着していたわけではなかったが、ここでは便宜的にこうした宗教者の総称として用いることにしたい。善光寺聖の基本的な行動様式は「生身(しょうじん)阿弥陀如来」を信仰し、その霊験を人びとに唱導して歩くことであったが、じっさいにはそれだけではなく、それに付随する多彩な活動をして、中世社会のさまざまな面に大きな貢献をした。そのもっとも重要なものは勧進(かんじん)聖としての役割である。平安末期に二度も善光寺を訪れたとされる俊乗房重源(ちょうげん)にも、すでに勧進聖としての側面が認められたが、鎌倉時代初期に活躍した典型的な勧進聖としては、四巻本『善光寺縁起』も取り上げている定尊(じょうそん)と浄蓮房(じょうれんぼう)源延がいる。
定尊は尾張(愛知県)の出身で、夢のなかに善光寺如来の使いがあらわれ、信濃善光寺に参詣せよとのお告げをうけた。そこで、善光寺におもむき、日夜誦経(じゅきょう)しつつ三ヵ月間参籠(さんろう)したところ、ふたたび如来があらわれて、「速やかに一切衆生(しゅじょう)に勧進して、わが身の等身像を冶鋳(やちゅう)せよ」との夢告(むこく)があったので、四万八千七百余人に奉加を求めて、建久六年(一一九五)ついに一光三尊像の新仏を完成させたとある。戦国時代に武田信玄によって信濃から移され、現在甲府市の甲斐善光寺に本尊として安置されている善光寺式如来は、建久六年の銘があり、しかも他の模刻像と異なって人間の等身に近い像高を有しているため、定尊が造立したのはこれにあたるのではないかとの説もある。いずれにしても、善光寺如来の模刻像をつくるために、人びとの喜捨を仰いで浄財を集めていた聖たちの活動を彷彿(ほうふつ)とさせる説話である。
いっぽう、源延は伊豆国走湯山(そうとうさん)(伊豆山権現、静岡県熱海市)を本拠とした僧で、毎年二、三度善光寺を訪れていたというほどの信奉者だったが、やはり定尊と同様に、衆生の悪業を救済するためにわが形像を写せとの夢告によって、承久三年(一二二一)にその大願を果たしたとみえる。縁起の記事には、造立にあたって源延は、本尊を拝してその姿を図に写しとったあと、まず仏師に木仏を彫らせ、それを型に本体を鋳造させたとあるが、当時の造像過程が知られる点で貴重であろう。定尊がやや伝説的人物であるのにたいして、源延については同時代の多くの史料に所見があることも注意される。それによると、若年のころ、比叡山で澄憲(ちょうけん)に学び、ついで信濃国安曇郡平瀬郷(松本市島内平瀬)にあった法住寺で修行し、養和二年(一一八二)には、この寺で天台密教味岡流の忠済から『念誦(ねんじゅ)次第』を授かったり、『簡要略記』を書写している(金沢文庫所蔵)。法住寺は天台宗の地方学問所である談義所ではなかったかとみられる寺院である。寿永(じゅえい)三年(一一八四)ころから伊豆走湯山に居住しており、建保(けんぽう)元年(一二一三)には幕府営中で源実朝に法華・浄土両宗の趣旨を談じ、元仁(げんにん)元年(一二二四)には北条義時追善供養の導師を勤め、寛喜(かんき)元年(一二二九)には三浦義村の招請により相模三崎海上で催された迎請(むかえこう)の導師を勤めるなど、幕府成立当初の時期に鎌倉周辺でさまざまな活動をしている(以上『吾妻鏡』)。
このように、武士社会に善光寺信仰をはじめとする浄土思想を普及させるのに大きな役割を果たした源延も、伊勢を本貫(ほんがん)とする御家人加藤景員(かげかず)の三男(光員・景廉の弟)であった。
善光寺聖は、中世における口承(こうしょう)文芸のにない手でもあった。その具体的な姿は、善光寺如来の霊験を絵画を使って語る絵解き聖でもあったことだが、文字の読めない人びとの多かった当時にあっては、絵解きは重要な文芸活動のひとつであったといえるだろう。
口承文芸という点に関しては、さらに『平家物語』、とりわけ延慶(えんぎょう)本のような読み本系のそれの成立に関与していたのではないかとの説(金井清光・砂川博)もある。善光寺聖の活動がもっともさかんであった鎌倉中期~室町期は、いっぽうで軍記物の成立期であったこと、木曾義仲と越後の城(じょう)氏が激突した「横田河原合戦譚(たん)」は、直接現地で見聞したものにしかできない描写であり、しかも信濃武士に好意的に叙述されていること、したがって、戦場で死者の埋葬や供養をおこなった善光寺聖が語り聞かせた内容が、読み本系の『平家物語』の素材として取りこまれたのではないか、といった点がその理由である。治承(じしょう)五年(一一八一)の横田河原合戦で善光寺聖が陣僧の働きをしたかどうかは史料的には確かめられず、読み本系が語り物系に先行するかどうか、さらに読み本系と語り物系という分類の仕方が有効かどうかも意見の分かれるところだが、『平家物語』の編さんや語りに直接かかわった人びとが善光寺信仰の普及に一役買っていたことは疑いない。『平家物語』諸本のなかには治承三年の善光寺炎上の記事につづいて、「善光寺縁起」が引用されているものが存在する。とくに注目されるのは、「善光寺炎上」の段を載せる代表的な『平家物語』のうち、四部合戦状本や延慶本には縁起が引用されず、長門(ながと)本になって月蓋(がっかい)長者の娘があらわれ、ついで『源平盛衰記』にいたって如是(にょぜ)姫がはじめて登場することが知られるように、『平家物語』の内容の発展にともなって、善光寺信仰の吸引力のひとつとなった女人救済説話の成長過程がたどれることであろう。
このように勧進や唱導に明け暮れた善光寺聖は、一ヵ所にとどまらず、各地を巡りあるくことが何よりの特徴であった。こうした遍歴行為は時宗では「遊行(ゆぎょう)」と称したが、一般的には「回国(かいこく)」ということばが使われた。したがって、回国聖もじっさいには善光寺聖と重なりあう部分が多かったのではないかと思われるが、この回国聖の活動については、中世後期により顕著になるので、第三章第四節で取り上げたい。