「富士の裾野(すその)の仇討ち」で知られる曾我(そが)兄弟のうち、兄の十郎祐成(すけなり)の愛妾であった大磯(おおいそ)(神奈川県中郡大磯町)の遊女虎は、箱根山で亡夫二十一日忌を済ませたあと、建久四年(一一九三)六月、わずか一六歳で出家をとげて信濃善光寺へおもむいたという後日譚が『吾妻鏡』にみえる。南北朝時代までに原形ができた『曾我物語』では、虎御前が曾我兄弟の敵であった工藤祐経(すけつね)の妾、遊女少将と同行したことになっているなど、この話は後世の唱導文芸に大きな影響をあたえ、しだいにフィクションも加わっていくが、『吾妻鏡』の記事は事実とみてよい。女人救済を説いた善光寺に、悲運の女性が訪れた早い例のひとつとして注目されよう。
この時代に善光寺を訪れた有名な女性では、もう一人、大納言久我雅忠(こがまさただ)の娘二条がいる。数奇な運命にもてあそばれたみずからの半生を、赤裸々に告白した作品として知られる『とはずがたり』によれば、正応(しょうおう)三年(一二九〇)の春、前年に鎌倉に下向したがよき先達(せんだつ)や同行者が見つからず、半年以上を無為に過ごしてしまう。たまたま善光寺参詣を志していた「川越入道後家尼」なる女性が、武蔵国の小川口(こかわぐち)(埼玉県川口市)にいることを紹介されてここに移り住み、同年二月、この尼を先達にした多くの女性たちに交じって、信濃に旅立ったのである。二条の参詣は、当時すでに女性のみのグループでおこなわれたことを示す点で興味深いが、さらに善光寺に参籠したあと、ある人の口利きで近くの水内郡和田郷高岡(古牧東和田・西和田)に居館を構える、石見(いわみ)入道なる武士の世話になって秋まで滞在したとある。この武士は東条(ひがしじょう)荘の地頭で、第一章第一節で述べた桓武平氏繁雅(しげまさ)系の和田氏一族であった。
善光寺信仰が浄土思想・阿弥陀信仰を本質とするものであった以上、専修(せんじゅ)念仏系の僧侶の参詣が早くからみられたのも当然である。法然房(ほうねんぼう)源空が善光寺を訪れたという記録はないが、その弟子や孫弟子には善光寺に参詣するものが多かった。重源もその一人だが、やはり筆頭には西山義(せいざんぎ)の祖で宇都宮頼綱・朝業兄弟の師として知られる善恵房(ぜんえぼう)証空があげられ、ついで藤原通憲(みちのり)(信西(しんぜい))の子で高野聖の元祖などとも評される明遍(みょうへん)がいる。証空は『法然上人絵伝』(四十八巻伝)によれば、京都西山の善峰寺から信濃善光寺までのあいだに一一ヵ寺の大伽藍(がらん)を建立したとあり、こうした話を額面どおりに受けとってよいかどうかは検討の余地があるが、善光寺を訪れたのは事実とみてよく、その時期は天福(てんぷく)二年(一二三四)から宝治元年(一二四七)のあいだのことらしい。
源空の門下では、ほかに鎮西義(ちんざいぎ)の祖、弁阿(べんあ)弁長(聖光房)の弟子の然阿(ぜんあ)良忠がいる(『然阿上人伝』)。宗門で浄土宗第三祖とされる良忠からは多くの門流が分かれている。とりわけ注目されるのは、鎌倉善導寺開山の良弁尊観(そんかん)(定蓮社)を祖とする名越(なごえ)流であろう。この一派はその後、善光寺南大門脇に月形坊を構えていた良慶明心(みょうしん)が教団発展の中心的役割を果たしたらしく、善光寺信仰を利用しながら、主として関東・東北地方に教線を拡張していった(第三章第四節第二項)。
元から来朝した禅僧の一山一寧(いっさんいちねい)も、正安(しょうあん)二年(一三〇〇)に善光寺を訪れた。弟子雪村友梅(せっそんゆうばい)の伝記『雪村大和尚行道記』によれば、諏訪下宮祠官(しかん)で得宗(とくそう)被官でもあった金刺満貞(かなさしみつさだ)は自分の建立した白樺山慈雲寺の開山に、当時鎌倉で建長・円覚両寺の住持を兼ねていた一山を依頼しようとしたが、執権北条貞時は、一山を地方におもむかせることに難色を示したので、善光寺参詣を表向きの理由として招請したことがみえる。禅僧のあいだにも、善光寺信仰が抵抗なく受け入れられていたことをうかがわせる逸話である。律宗では、西大寺流に属した金沢称名寺から、釼阿(けんな)をはじめ多数の僧が善光寺参詣をしたほかに京都泉涌(せんにゅう)寺で受戒した北京律の無人如導も鎌倉末期ごろ、善光寺を訪れた。その伝記『無人和尚行業記』によれば、善光寺に長らく滞在して説法を繰りかえし、多くの帰依者を得たとある。かれの行実のひとつに女人救済があり、数十ヵ所に尼寺を建立したと記されるから、当時女人信仰の拠点として全国的に知られた善光寺を訪れたのも、善光寺如来に救いを求めて各地からやってくる女性たちを当てこんで、宗教活動を展開するのが、当初からの目的であったと思われる。