一般に鎌倉新仏教とよばれるのは、浄土宗・浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞(そうとう)宗・日蓮宗の六宗派のことである。これらの宗派の祖師(開祖)は確かに同時代にあらわれていたが、後世のように組織的な教団が当時から存在したわけではなかった。当時の仏教界は、顕密(けんみつ)系とよばれる旧仏教勢力が圧倒的に優位を占めるなかで、祖師とよばれるおのおのの開宗者やその弟子たちからなる小集団が、限られた地域で武士層や上層農民を主な対象に布教活動をしたり、あるいは人里離れた山中で修行生活にいそしんでいたにすぎない。したがってこれらの教団仏教はじっさいにはまだ全国的に根づくまでにいたらなかった。ただ、信濃の場合、これまでも述べてきたように善光寺が存在したため、個別の教団の枠を越えた幅ひろい宗教者が訪れ、信濃国内にもそれなりの影響をおよぼしていたことが推察されている。その代表は、二度にわたって善光寺を参詣した一遍(いっぺん)(智真)による時宗である。
一遍の最初の参詣は文永(ぶんえい)八年(一二七一)のことで、『一遍聖絵(ひじりえ)』によれば、このときに金堂内で見た二河白道(にがびゃくどう)の図に感銘した一遍は、この図を写しとり、帰国後に伊予国(愛媛県)の窪寺(くぼでら)(愛媛県松山市窪野町)の本堂に掲げて本尊としたとある。安心(あんじん)(悟り)を得たのは、このときの善光寺参籠(さんろう)の体験が契機ではないかとする見方も出ている。二度目は弘安(こうあん)二年(一二七九)から翌三年にかけての時期で、このあいだに佐久郡伴野(ともの)荘の市庭(いちば)在家(佐久市)で別時念仏を修(しゅ)したり、小田切里(伴野氏館とも)では踊り念仏をはじめておこなったりしたことでよく知られる。
しかし、一遍が伊予国の有力御家人河野氏の出身であった点からすると、その出家事情には、承久(じょうきゅう)三年(一二二一)の承久の乱で京方に属し、一族が没落の運命に瀕(ひん)したことが暗いかげを落としていたはずであり、後年諸国を遍歴したのも、承久の敗戦後に各地に流されて死亡したり、処刑されたりした祖父や叔父たちの墳墓の地を尋ねて、菩提を弔うことに目的のひとつがあったと考えるのが自然である。とりわけ、信濃には叔父河野通末が伴野荘に流罪となり、もう一人の叔父通政(みちまさ)が伊那郡葉広(はびろ)(伊那市西箕輪羽広)で処刑された事実があるから、伴野荘に長くとどまって、ここで踊り念仏を始めたというのも、当初の目的は叔父の回向のためであったと推測される。一遍没後一〇年にあたる正安(しょうあん)元年(一二九九)に成立した『一遍聖絵』(聖戒本)では、すでに一遍を宗祖として神聖視し、奇瑞(きずい)を交じえながら描いているため、この辺の事情はほとんどうかがうことはできない。また信濃に入ったルートについても、『一遍聖絵』の記述には手掛かりがなく、三河(愛知県)から天竜川に沿って伊那谷に入ったのではないかといった説も出ているが、後世の『一遍上人年譜略』などでは北国経由であったことが記されており、弟子真教の遊行も当初は、一遍の足跡をたどろうとした形跡がある。こうした点からみて、少なくとも二回目の善光寺参詣は北陸道を経由した可能性が高いだろう。
一遍の弟子で第二世とされる他阿真教(たあしんきょう)も善光寺を訪れたことが、宗俊本『遊行上人縁起絵』によって知られるが、それは永仁(えいにん)六年(一二九八)ころのことである。
一遍の死後、教団の組織化をめざした真教は、正応(しょうおう)三年(一二九〇)越前国に入って遊行を始め、同国の惣社(そうじゃ)に、参籠(さんろう)したり別時念仏を修するなど、越前・加賀(石川県)を中心に二、三年を北陸で過ごしている。その後、平泉寺(福井県勝山市)の衆徒(しゅと)らの迫害をうけたことが直接の原因で、北上して関東へ向かい、下野(しもつけ)国までいたっている。前にふれたように小山(おやま)善光寺の如来堂に逗留したのは、このときのことであった。『遊行上人縁起絵』によれば、ここから武蔵国へ抜けたり、ふたたび越中国にもどったかと思えば、今度は越後に向かうなど、信濃に入国するまでに北陸と関東を何度も往還したかのように描かれているが、同書の絵の主題と詞書(ことばがき)がかならずしも時間の経過どおりに記述されているかどうかは疑問の余地もある。いずれにしても、越後国の柏崎(新潟県柏崎市)付近で布教したあと越後国府(同上越市)にいたり、そこから関山(同中頸城郡妙高村)、熊坂(信濃町)を通って信濃国に入ったようである。善光寺に参詣したとき、めったに見ることのできない舎利会(しゃりえ)がたまたま臨時に開かれていて、いたく感動したことが述べられている。信濃では約一年間滞在しており、翌年、佐久から甲斐国に抜けている。
信濃に滞在中に、真教がどこでどのような布教活動をしたかかならずしも明確ではないが、『他阿上人法語』には「上原氏」のことがみえるから、諏訪地方へも足を延ばしたことが推察される。また、真教は歌人でもあったが、かれの『他阿上人歌集』が善光寺にその後も安置されていたことは、遊行三二代普光がそれを天正(てんしょう)十七年(一五八九)に善光寺曼荼羅(まんだら)堂で書写していた事実から知られる。さらに、四巻本の『善光寺縁起』には、鎌倉時代末ごろの逸話として念仏堂に四八入の時衆が勤番していたことがみえるから、当時、善光寺に時衆が居住しはじめていたことが推察されよう。かれらは室町時代には妻戸(つまど)衆とよばれる、善光寺内の一大勢力になっていた。
いっぽう、善光寺とともに真教が布教の拠点にしたと思われる地が、一遍以来の因縁のある佐久地方であった。伴野氏館(やかた)のすぐ南に時宗の金台(こんだい)寺が現存する(佐久市野沢)が、当初の位置は現在地より南であったとされている。「金台寺」の寺号の初見は確実な文献では中世末期まで下るが、伴野荘内に時衆の道場が所在したことは南北朝にはすでに確認されるから、当寺の寺基が真教の時代にできていた可能性はあろう。ただし、金台寺所蔵の「真教自筆の仮名消息」とされているものは、最近の研究では遊行五代安国上人のものであることが明らかにされており内容的にも信濃とはかかわりない。同じく『一遍上人絵伝』(巻二のみ)も近世になって他から移されたものである。いずれにしても善光寺と伴野の道場は、その後の遊行上人が信濃ではかならず訪れる、重要な聖地とされるにいたっていたことは確かである。