鎌倉新仏教のなかに、明庵栄西(みょうあんえいさい)の伝えた臨済宗と希元道元(きげんどうげん)の伝えた曹洞宗があった。禅宗は座禅によって悟りを開こうとする自力救済的な仏教の一派である。禅の教えはわが国の武士の気風と合致していたため、中世には武士社会を中心として受容されたと一般にいわれるが、鎌倉時代にはまだ、全国的に流布していたわけではなかった。とくに曹洞宗は為政者(いせいしゃ)の関与をきらって、政権所在地から離れた山中の寺院にこもって修行したため、その他の地域にはほとんど教線は伸びていない。信濃でもこの時代に建てられた曹洞宗寺院は今のところ確認されておらず、この方面では、わずかに三代目の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の檀越(だんおつ)として、能登国賀島郡酒井保(石川県羽咋(はくい)市)の地を永光寺の造営用地に寄進した信濃出身の武士、海野三郎(滋野信直)夫妻の事績が知られるのみである(永光寺文書、『洞谷記』)。
臨済宗については北条氏がこれを外護(げご)して、鎌倉に京都や中国から高僧を招いて建長寺や円覚寺などの大寺院をあいついで建てたが、地方ではそうした例は、北条氏や有力御家人の所領内に限られていた。信濃でも建長(けんちょう)末年(一二五五ころ)、北条氏が地頭職(しき)を有した小県郡塩田荘(上田市)に安楽寺が建立されたのがもっとも古く、それにつぐものとして、北条氏家臣(得宗被官)で諏訪下宮の金刺(かなさし)満貞が、一山一寧(いっさんいちねい)を開山に招いて建立した慈雲寺(諏訪郡下諏訪町)があるくらいで、北信地方ではこの時期の具体的な事例は、はっきりわかつていない。
それにたいして、信濃からは、当時の臨済禅において指導的な役割を果たす著名な僧侶が、あいついで輩出していることが注目される。信濃出身で鎌倉時代に活躍した高僧としては、無本覚心(むほんかくしん)(房号は心地房)・無関普門(むかんふもん)・規菴祖円(きあんそえん)の三人である。このうち、覚心(一二〇六~九六)は東大寺で受戒し、高野山などで学んだあと入宋(にっそう)し、帰国後は紀伊西方寺(のちの興国寺、和歌山県日高郡由良町)を開いて亀山・後宇多天皇などの帰依を得て、法灯円明(ほうとうえんみょう)国師号を追諡(ついし)されている。かれは臨済宗法灯派の祖で普化(ふけ)宗も将来したとされる人物であった。覚心が、筑摩(つかま)郡神林郷(松本市神林)の生まれで、姓は常澄氏(名字は不明)と伝えられるのにたいして、臨済宗聖一派の僧で京都南禅寺開山となった無関普門は高井郡保科御厨(みくりや)(若穂保科)、また仏光派の僧で同寺第二世住持の規菴祖円は水内郡長池郷(朝陽北長池・古牧南長池)の出身とされているように、この二人は現在の長野市内から出た禅僧であった。そこで、やや詳しくその伝記などを述べておこう。
無関普門(一二一三~九二)については、『瑞竜寺太平興国南禅寺開山大明(だいみん)国師無関和尚(かしょう)塔銘』や『大明国師行状』、および同時代に虎関師錬(こかんしれん)によって編さんされた『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』に記事があり、これらによると以下のようである。まず出自については、保科の生まれで姓は「源」とする点でどの伝記も一致している。保科御厨の領主層の出身であることは疑いない。保科氏は源平内乱期には井上氏に従属してその侍となっていたが、元暦(げんりゃく)元年(一一八四)に井上光盛が頼朝に誅(ちゅう)せられたとき、御家人に取り立てられたという経緯がある。したがって、鎌倉期には保科御厨の領主は保科氏の可能性もあるが、保科氏はそののち神氏の一族として史料にみえることが多く、源姓とする伝記の記述と矛盾するため、保科氏か井上氏かは、なお検討の余地があるだろう。
かれは七歳で越後国蒲原(かんばら)郡菅名(すがな)荘の正円寺(新潟県中蒲原郡村松町)にいた叔父の寂円の弟子となり、一三歳で得度した。法号は正しくは玄悟といい、普門は房号とされる。その後いったん故郷の信濃国に帰って、「信州の学海」とよばれた小県郡塩田荘で学んだあと、一八歳で上野国長楽寺(群馬県新田郡尾島町世良田)の栄朝から菩薩戒(ぼさつかい)を受け、顕密二教を学んだとある。ついで、京都東福寺の円爾弁円(えんにべんえん)のもとに参じて、その法をつぎ、さらに越後国蒲原郡の華報(けほう)寺(新潟県北蒲原郡笹神村出湯)に招かれている。建長三年(一二五一)入宋(にっそう)し、浙江(せっこう)省の会稽(かいけい)で荊叟如珏(けいそうにょぎょく)に、また同省の杭州の浄慈寺で断橋妙倫(だんきょうみょうりん)に参じて、印可された。妙倫は示寂(じじゃく)(逝去)にさいして袈裟や自賛の頂相(ちんぞう)を普門に付与したと伝えられる。一二年間、浙江省を中心に各地の禅宗寺院で修行し、帰国後はふたたび円爾に師事、のち鎌倉寿福寺の蔵叟朗誉(ぞうそうろうよ)の門下に入り、越後国の正円寺や摂津国の光雲寺などにも歴住したあと、弘安(こうあん)四年(一二八一)東福寺第三世住持となり、さらに、正応(しょうおう)四年(一二九一)亀山上皇に請(しょう)じられて南禅寺の開山となっている。
南禅寺はもとは亀山上皇が建てた離宮であったが、ここに妖怪が出て、これを禅の力で退けたことにより、上皇は禅宗に帰依し、離宮を禅刹(ぜんさつ)にあらためたという逸話が伝わっており、当初は禅林寺と称していた。南北朝期には五山制度のもとで「五山之上」という最高の寺格を誇った寺院で、現在は臨済宗南禅寺派大本山である(京都市左京区南禅寺福地町)。普門はその年の秋に東福寺に帰り、東福・南禅両寺の住持を兼務したが、十二月十二日に示寂し、東福寺の竜吟庵(りゅうぎんあん)に葬られた。元亨三年(一三二三)、亀山上皇から大明(だいみん)国師の諡号(しごう)を賜っている。なお、現在、南禅寺には自賛のあるものをふくめて、かれの中世の頂相(ちんぞう)が三点伝来している。
規菴祖円(一二六一~一三一三)については、著書に『南院国師語録』があるほか、南北朝時代の『南院国師規菴和尚行状』などの伝記がある。生まれは水内郡長池とあるが、鎌倉時代の長池郷は南北二つに分かれていて、それぞれ別々の領主が支配していた。いっぽうは東条荘など広大な所領をもっていた和田氏の一族、もういっぽうは問注所執事などを勤めていた三善氏一族が地頭であった。「信濃出身」と伝承されていることは、より在地性のある家の出であったことを意味するから、祖円の出自は和田氏であった可能性のほうが高いだろう。ただし、和田氏は鎌倉時代を通じて都とのひんぱんな交流を保っていた武士としても知られる。
かれが出家したのは鎌倉の浄妙寺で、のち建長寺住持に招かれていた宋僧無学祖元(むがくそげん)のもとに参じ、ついで祖元にしたがって円覚寺に移り、祖元の没後は京都東福寺の無関普門や紀伊国興国寺の無本覚心などのもとに参じたとあるから、郷土信濃の出身者同士のつながりが当時も存在したことがうかがわれる。正応四年普門が南禅寺(禅林寺)の開山に迎えられたさい、かれに随仕し、そのもとで首座(しゅそ)を勤めた。この年に示寂した普門のあとをついで、翌年南禅寺第二世となったが、普門の法嗣になるであろうとのおおかたの予想に反して、無学祖元の法をついだという逸話の持ち主でもあった。亀山上皇の離宮から出発した南禅寺が大伽藍を有する禅刹(ぜんさつ)に整備されるのは、祖円の尽力によるところが大きい。正和二年(一三一三)四月二日に五三歳で示寂し、同寺の帰雲庵に葬られた。入滅後、後醍醐天皇から南院国師号を追諡(ついし)されている。頂相(ちんぞう)がやはり南禅寺に二点残されている。
以上のように、中世後半に最盛期を迎える禅宗や五山文化の中心となる南禅寺の初代、二世はともに現在の長野市の出身であった。南北朝時代以降に活躍した僧については第三節でのべる。