易行(いぎょう)をひとつの特徴とする「鎌倉新仏教」、とくに法然房源空の唱えた専修(せんじゅ)念仏に多くの支持者が集まると、総合的学問としての従来の仏教のありかたをないがしろにするものであるとか、あるいは破戒行為をもたらすものであるとの批判が、延暦寺や興福寺の僧徒のあいだから起こり、専修念仏の停止を求めたりする動きが出た。そのいっぽうで、心ある僧のなかには旧仏教の側にも堕落や腐敗の多い現状を深刻に反省し、戒律の重要性を唱えるものもあらわれ、戒律復興運動も起こってきた。
これらの律僧は単に持律持戒の生活を送っただけでなく、勧進や葬送にたずさわったり、女性や癩病(らいびょう)(ハンセン病)患者を積極的に救済したりするなど、社会に出てさまざまな宗教的実践活動を展開しており、ある意味では当該期の日本社会においてもっともめざましい活動をした宗教者たちであったといっても差しつかえない。かれらについては旧仏教の改革派とするのが通説であったが、その活動内容や方法から、近年では鎌倉新仏教そのものと評価する見方も出てきている。したがって、こうした動向が地方にも大きな影響をあたえたのは当然で、信濃でも律学を学ぼうと志す人びとが多く輩出している。鎌倉時代における律宗は、最大の勢力を誇った叡尊(えいぞん)・忍性(にんしょう)らの西大寺流のほか、叡尊の同朋であった覚盛(かくじょう)に始まる唐招提寺(とうしょうだいじ)流、それと平安末期に渡宋して多くの律書をわが国にもたらし、京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)に居住して活動を始めていた俊芿(しゅんじょう)を祖とする北京律があった。これら三派のいずれにも信濃出身者がふくまれていたことが確認できる。
北京律では俊芿の高弟承仙がいる。俊芿の遺書ともいうべき『泉涌寺遺属誥文(こうもん)』に「信州僧承仙」とみえるのがそれで、かれは寺内で、長老・首座(しゅそ)・懴主(せんしゅ)につぐポストである維那職(いなしき)や修造部門を統括する監作功徳主職(かんさくどくしゅしき)などの要職に就いていた。唐招提寺流の法脈を引くものとしては、覚盛の門下で、のちに東大寺戒壇院を拠点に活動した円照の弟子たちが五人いた(『東大寺円照上人行状』)。恵静房性円・観実房(道号不明)・本実房性憲・戒円房(道号不明)・証道房頼円の五人で、この数は東国では出羽・常陸とともにもっとも多い数となっている。
いっぽう、西大寺流については、弘安三年(一二八〇)までに叡尊が直接に授戒した約五〇〇人の弟子たちの名簿である『授菩薩戒弟子交名(きょうみょう)』によって、信州の人は禅寂房実厳(じつげん)・常空房爾空(じくう)・円定房真源(しんげん)・持縁房良空(りょうくう)・行願房性了(しょうりょう)・顕智房円海(えんかい)の六人が知られる。この数は東海道・東山道・北陸道をふくめた東国のなかでは、常陸・上野の八人につぐ多さである。
このうち、円定房真源に関する史料はたまたま多く残されている。それによると永仁六年(一二九八)ころに千葉氏の一族大須賀氏の招きで、下総国の大慈恩寺(千葉県香取郡大栄町)を復興して、ここの住職(長老)となった人物で、その弟子からは、のちに武蔵国金沢の称名寺(横浜市金沢区金沢町)第四代長老となる観蓮房実真が出たことなどが知られる。これら承仙、円照や叡尊の弟子たちは、真源もふくめて、出自や出身の荘郷名については史料に記載がないため、まったく不明である。しかし、少なくとも西大寺流については北信地方からの出身が多かったのではないかと思われる節がある。それが太田荘の存在である。
太田荘は現在の長野市長沼・柳原地区から豊野町・牟礼村・三水村・豊田村の五市町村にまたがる、摂関家領の大荘園であった。鎌倉時代には少なくとも一八ヵ郷からなり、当初の地頭職(しき)は一円的に島津氏が有していたが、比企氏事件あたりを契機に、このうちの石村郷(豊野町石)と大倉郷(同大倉)の二郷が北条氏の所領(地頭職)となっている。この二郷はその後、北条氏のなかでも実泰を祖とする金沢(かねざわ)氏に伝領されたが、他の多くの金沢氏所領がそうであったように、領内には氏寺である金沢称名寺の寺領(厳密には寺用米の徴収権)も設定された。この二郷が完全に称名寺領になるのは鎌倉末期のことであったが、この段階ですでに、寺領経営のために称名寺から寺僧たちが現地入りし、当時の鎌倉の文物や思想なども流入することになった。律宗の伝播(でんぱ)もそうしたもののひとつとみることができる。
称名寺はもともとは実時が建立した念仏系の寺であったが、幕府の招きで叡尊が鎌倉に下向し、忍性が極楽寺を拠点に活動を開始すると、称名寺も律宗寺院として再生することになり、関東における律宗の中心寺院のひとつになっている。このように鎌倉幕府が律宗を保護した背景には、叡尊らのめざした戒律遵守(じゅんしゅ)の理念と、鎌倉時代後半の体制立てなおしに禁欲主義的な政治政策をとろうとした幕府のおもわくが合致したことがあげられる。北条氏得宗(とくそう)家は従来から表向きは臨済禅を一貫して外護(げご)して、これを精神的支柱においていたため、律宗については北条氏一門のうちでも金沢氏が中心となって保護することになった。律宗が主として金沢氏の政治力と経済力をうしろだてに教線を全国的にのばし、地方の有力な律院の多くが金沢氏所領内に存在したのもそのためである。
太田荘の場合も例外ではなく、石村郷内に当時あった神護寺(じんごじ)(粟野(あわの)神社の神宮寺。現在は廃寺だが、長沼穂保(ほやす)の曹洞宗貞心寺が法灯を継ぐ)は明らかに律宗寺院になっており、年時は不詳だが鎌倉末期ごろ、当時の長老尊如房(そんにょぼう)が金沢貞顕(さだあき)を訪れていたことが金沢文庫古文書から知られる。いっぽう大倉郷にも当時、極楽寺という寺院のあったことが、以前から地字名やかつて出土したという仏具などの遺品から指摘されていた。これも律宗寺院であったらしいことは、この郷の地頭であった尼永忍が律宗の熱烈な支持者であったことや、大倉郷内で元徳三年(一三三一)ころ、西大寺流律宗の特徴的な宗教活動のひとつであった殺生禁断が実施された点などから推測される。
信濃国で、金沢氏所領であったことが明確に知られるのは、太田荘の二郷を除くと、わずかに更級郡の四宮(しのみや)荘北条(篠ノ井塩崎四宮)があるだけで、しかも後者は金沢氏領となっていた期間はきわめて短かったらしい点などから、信濃における金沢氏と称名寺の経済的基盤は太田荘がほとんど唯一のものであったとみられる。したがって、律宗の信濃での拠点も太田荘で、叡尊の門下となって律学を志したものの出身が、信濃では太田荘およびその周辺であったという想定を可能にさせるのである。
金沢文庫古文書のなかには、第二代長老の釼阿(けんな)をはじめ、称名寺関係の僧が多く善光寺を訪れたことを示すものがふくまれている。信濃善光寺に関する情報や知識は、もともと荘園経営のために称名寺から下向した僧によって、六浦荘や鎌倉にもたらされたものも少なくなかったと思われる。