旧仏教系寺院の動向

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この時期における旧仏教系寺院の動向についてもふれておこう。当時、信濃国に存在した、中央にも知られた有力寺院としては、『吾妻鏡』の文治二年(一一八六)三月十二日条にみえる善光寺・顕光寺・「青龍寺」・「月林(がつりん)寺」の四ヵ寺があげられる。「青龍寺」は清瀧(きよたき)寺の誤写とみられ、「月林寺」も正しくは月輪寺と考えられる。いずれも現在の長野市内、もしくはその周辺に存在した寺院である。

 「青龍寺」については従来、所在地が不明で「謎の寺」とされてきたものだが、現在の長野市松代町東条に清滝観音堂があり、かつてここに大寺院が存在していたことが想定されるので、この寺のことではないかとみられる。創建時期は不明だが、奇妙山麓(さんろく)にある清滝観音堂の一番奥まった場所に、現在も柱状節理をなす岩場から流れ落ちる一筋の滝があり、かつては水量も多くみごとな景観であったとされるから、おそらくこの滝の地が聖地とされることで発展した寺院であろう。

 当寺に関するもっとも古い史料は、現在石川県小松市の那谷寺(なたでら)に所蔵されている『金剛界儀軌(ぎき)』(口絵参照)という上下二巻からなる密教の典籍で、同書の奥書によれば大治六年(一一三一)に信濃の清滝寺で書写されたものであることがわかる。筆写した僧の法名は不明だが、加賀国江沼(えぬま)郡山代(やましろ)荘の温泉寺で学んだという経歴の持ち主であった。温泉寺は山代温泉の経営・管理のために成立した寺院で、現在は石川県加賀市の山代温泉の中心街にある薬王院という小寺院が、法灯を伝えているにすぎない。しかしかつては多数の典籍類を所蔵した学問寺であり、かつ白山修験(はくさんしゅげん)の拠点寺院としても栄えた、北陸地方有数の天台宗系(山門派)の大寺院であった。とくに一一世紀末に悉曇(しったん)学(サンスクリット語学)の大家である明覚(めいかく)がこの寺で研鑚(けんさん)して、多くの著述を残していることで有名で、全国から学僧が集まった。すでに一一世紀の前半に、『拾遺(しゅうい)往生伝』に伝記のある、水内郡多牟尼山(たむにさん)の修行者平円が服部上人について密教を学んだという場所も、この温泉寺であった可能性が高い。『金剛界儀軌』を書写したのは、この明覚の門流を受け継いだと推定される僧である。清滝寺と温泉寺のあいだで、さかんに僧の交流がなされていたのである。

 鎌倉時代における清滝寺の状況を示す文献史料はほかにないが、現観音堂本尊の木造千手観音立像(りゅうぞう)は、後世の補修は多くあるものの、鎌倉初期ごろの造立(ぞうりゅう)と考えられる遺品である。もうひとつ注目されるものに、東条地区の竹原集落の畑地に建つ、通称「笠仏」とよばれている石幢(せきどう)(口絵参照)がある。塔身の上部四面に弥陀(みだ)・釈迦(しゃか)・薬師・弥勒(みろく)の坐像を浮き彫りにした、当地方では珍しい石造遺物で、これも銘文はないが、様式上から鎌倉初期を下らない時期の作例とみられ、もともと清滝寺とのかかわりで建立された可能性が高いとされている。建武(けんむ)三年(一三三六)正月、清滝寺の背後の奇妙山頂にあった清滝城で、籠城(ろうじょう)した北条氏残党と、足利尊氏方の村上信貞と守護小笠原貞宗の麾下(きか)に属した市河氏とのあいだで戦闘がおこなわれた(『市河文書』)。この清滝城は清滝寺と一体の関係にあったとみられる山城で、清滝寺の衆徒も北条方について参戦したことが想定される。当時、「英多(あがた)荘清滝城」とか「英多城」とよばれていた点からしても、英多荘(松代町)の在地領主との関係が深まっていたらしいことがうかがわれよう。これ以後の中世史料に当寺のことがほとんど見られなくなることから、この戦いで壊滅的な打撃をうけた可能性も考えられる。


写真24 清滝寺の発祥のもととなった清滝
(松代町東条)


写真25 正覚院 (安茂里大門)

 月輪寺は長野市安茂里字大門の山腹に立地する正覚院(しょうがくいん)が、その法灯を継ぐ寺である。当寺の建立年次は不明だが、正覚院に現存する木造伝観音菩薩立像は平安中期ころの制作にかかるものとされており、創建時にさかのぼりうる遺作と思われる。『吾妻鏡』では「月林寺」とあるが、嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)の結番(けちばん)状(守矢文書)には「月輪寺一方 窪寺(くぼでら)新左衛門尉跡」とみえる。安茂里小市(こいち)の日輪寺とほんらいは対になって存在した寺院と思われ、近世まで「月輪寺印」が正覚院に伝来していた(岩下貞融『正覚院記』)ことなどから、月輪寺が正しい表記であったとみてよい。

 月輪寺は通称「窪寺」ともよばれており、これが当寺の所在した郷名ともなっていたが、その地頭は窪寺氏で、本姓は滋野氏であった(『河村系図』)。文永(ぶんえい)二年(一二六五)に幕府が任命した四人の善光寺奉行人の一人、窪寺左衛門入道光阿はこの一族の出身である。月輪寺の鎌倉時代の状況についてはかならずしもはっきりしないが、のちに建仁寺・円覚寺・南禅寺・天竜寺などの住持を勤め、南北朝時代の代表的な五山派臨済僧として知られる此山妙在(しざんみょうざい)(一二九六~一三七七)が、窪寺氏の出身で、幼いころ月輪寺の僧妙通のもとで修行し、その喝食(かつじき)となっていた(第三章第四節第二項参照)。

 月輪寺と一対の関係にある寺院として、現在の長野市安茂里字小市(こいち)に存在していたのが日輪(にちりん)寺である。近世以前にすでに廃寺となっていたらしく、こんにちではその寺地さえ定かでないが、戸隠神社旧蔵の『紙本墨書大般若(だいはんにゃ)経』の奥書には「薗(その)日輪寺」とか「薗寺」とあるので、おおよそ現在の園沖地籍に比定される。当地区を流れる「寺沢」は日輪寺にちなむものではないかと思われ、この付近からはかつて鎌倉期の経筒(きょうづつ)が出土したとの報告もある。

 日輪寺の所在地は当時、小市郷といい、前引の『吾妻鏡』の記事では「天台山領小市」とみえているが、窪寺郷と月輪寺との関係と同様に、天台山(比叡山延暦寺)領の小市郷内には日輪寺の寺領が存在していた可能性が高く、日輪寺も延暦寺の末寺として機能した有力寺院であったと推定される。小市の地名はここが犀川の渡河点であり、しかも水内郡と安曇郡を結ぶ交通路との分岐点でもあるなど、古来から交通の要衝で、定期的に市が立ったことに由来するものだろう。さらに注目されるのは、ここからは延暦寺領であった戸隠顕光寺への最短距離の道(近世の馬神(まがみ)街道や深沢往来)が通じていたことである。当地を延暦寺が確保したのは、戸隠山の登山口にあたり、かつ年貢の集積や交易に便利な地であったためと考えられ、日輪寺はおそらく、その現地支配の拠点として建立された寺院とみることができる。なお、小市郷は鎌倉末期の永仁(えいにん)七年(正安元年、一二九九)当時は、すでに比叡山の支配から離れたらしく皇室領の小河(おがわ)荘の一郷となっていたが、日輪寺は依然、天台宗系の寺院として存続しており、戸隠顕光寺の里坊のような機能を果たしていたらしい。後述するように、このころ、顕光寺では宝光院の大般若経の欠巻部分を補う写経事業がすすめられていたが、同年四月から七月にかけて、戸隠中院義養房の良吽(りょううん)と良憲、および幸松殿とよばれる十五、六歳の男子の三人が、日輪寺の住房でそれらの一部を書写している。


写真26 長谷寺 (篠ノ井塩崎)

 このほか第一編第三章第三節第四項であげた長野市篠ノ井塩崎の長谷寺も、鎌倉時代には地方の有力霊場として中央にも知られる寺院になっていた。鎌倉初期に成立した、大和国長谷寺の『長谷寺霊験記(れいげんき)』の巻下第一話として載せられた、「信濃国更級郡姨捨山麓(おばすてさんろく)の白介(しらすけ)ノ翁(おきな)」の説話に当寺が登場していることからも、その点がうかがえよう。この寺がしだいに霊場に発展していった背景には、大和長谷寺を中心とした長谷信仰が全国的に展開したことや、それと善光寺信仰が融合したことなどを指摘できるが、それとともに、当寺が所在した四宮荘(京都仁和寺領)の領家や在地領主の保護があったことも見すごすことはできない。貞和二年(一三四六)当時、長谷寺には二町の免田が領主からあたえられていた(天竜寺重書目録)。