戸隠顕光寺の組織と諸活動

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長野市近辺の山岳信仰の対象となった山として、戸隠連峰のほかに、飯縄(いいずな)山(現在の飯綱山)や、その尾根つづきに位置する霊仙寺山などがあった。これらの山はむろん鎌倉時代においても、引きつづき地域の山岳霊場として人びとに信仰されたことは疑いないが、当時は比叡山延暦寺の威光を笠に着た戸隠顕光寺が、宗教的にも政治的にも在地で圧倒的な優位を誇っていたため、飯縄神社や霊仙寺はいずれも戸隠信仰の勢力圏内に包みこまれて、独自の宗教勢力を築くまでにはいたっていなかった。室町時代の『戸隠山顕光寺流記(るき)』には、天福(てんぷく)二年(一二三四)のこととして、飯縄大明神の「自分は日本第三之天狗(てんぐ)だが、戸隠権現の加護によって苦しみから脱し、りっぱな神となって戸隠山の鎮守になりたい」との託宣(たくせん)があったと述べられている。むろん、これは本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想の影響をうけた類型的な説話にすぎないとはいえ、飯縄山のおかれた当時の状況をよく示している。同書には文永(ぶんえい)七年(一二七〇)、山内での合戦によって宝光院大衆が離山し、霊山寺に居住したとみえるから、当寺も顕光寺の末寺的な存在であった事実がうかがえよう。

 鎌倉時代の戸隠神社関係の文献史料はほとんど残されていないが、のちの長禄(ちょうろく)二年(一四五八)に有通が校合(きょうごう)して奉納した『戸隠山顕光寺流記』には、この時期の信憑(しんぴょう)性に富む記事も多くふくまれているため、以下本書によって述べることにしたい。

 第一章第一節第三項で触れたように、戸隠では一二世紀以来、別当の地位をめぐって、在地領主の井上氏と村上氏(栗田氏)のあいだで熾烈な抗争がつづけられており、こうした様相は鎌倉中期ころまでみられた。その後は栗田氏が独占的に戸隠に進出するようになり、両派をめぐる争いはしだいに終息に向かったが、山内ではこのほかにもさまざまな騒動が起こっている。永仁(えいにん)四年(一二九六)には、ふもとの上野(うえの)村(戸隠村)の領主とみられる上野弥三郎入道のこどもが寺中で猿狩をしたというので、三院の御輿(みこし)が火御子(ひのみこ)社に振りだすといった事件があったし、翌年には柴灯(さいとう)のやりかたをめぐって、老僧と行人(ぎょうにん)とのあいたで争論が起こった。承久(じょうきゅう)二年(一二二〇)には、焼失した内裏を再建するための造内裏(ぞうだいり)役が信濃国内の荘園・公領にも課せられたが、それには善光寺領や「天台領二ヶ所」も対象とされていた(民経記(みんけいき)裏文書)。後者には戸隠顕光寺領がふくまれていたと推定され、このとき、顕光寺の衆徒は本所の延暦寺と共同で、これを免除してくれるよう朝廷に訴える行動に出たらしい。

 鎌倉時代の戸隠は、以上のように寺内でも対外的にも争いごとが絶えなかったが、そのいっぽうで一山大衆が協力して、伽藍の修築や仏像・仏具の造立などに努めていたとも伝える。承久二年には水内郡若槻荘の地頭で、源氏一族の若槻頼隆が牛玉珠一顆(か)を寄進し、仁治(にんじ)三年(一二四二)には高井郡の小河原(おがわら)(藤原)真国(須坂市)が獅子(しし)と狛犬(こまいぬ)各一体を寄進したという。山内居住の大衆がみずから出資したり、勧進をおこなったりして寺観の荘厳(しょうごん)・営繕にあたった事例もある。たとえば、貞応(じょうおう)元年(一二二二)から本院(現在の奥院)の仁王門の建立が開始され、同三年に完成しているが、これは本院大衆の助成によるものであった。永仁六年正月には、本院の御祭所(権現堂ともいった)が積雪の重みで倒壊し、本地仏も破損したが、このときには灯明職にあった円琳(えんりん)房行祐が発願(ほつがん)して再造に取りかかり、同年九月には開眼(かいげん)にこぎつけている。現在、埴科郡戸倉町の長泉寺に安置されている木造聖観音菩薩坐像がこれである。

 こうした大衆による寺内の復旧活動で、もっとも顕著なものは写経事業であった。これは昭和十七年(一九四二)の火災で惜しくも焼失するまで、中社に伝来していた経典の奥書や版木によって判明する。大別すると二種類に整理することができる。

 第一は宝光院の『大般若経』一部六〇〇巻(折本装)の補修と欠巻部分を補うためのもので、遅くとも内乱期の治承(じしょう)三年(一一七九)には開始され、ひととおり終了したのが嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)であったから、少なくとも一五〇年にわたる長期的事業であった。この勧進活動の中心的役割を果たした僧の一人に、永仁年間に活躍した教釈房の阿闍梨(あじゃり)善豪がいる。結縁して書写したものは、寺内の僧侶や近隣の信者が主体であったようで、書写した場所として具体的に知られるところとして、小市郷(安茂里)の日輪寺(薗寺)があった。書写したもののなかには、尾張国中島郡に住む僧実智などもいた(巻第三百六十二)から、善豪の勧進は寺内や近隣のみではなく、遠隔地までおよんでいたことがうかがわれる。


写真27 戸隠神社奥社 (戸隠村)

 第二は元亨(げんこう)元年(一三二一)から数年間にかけておこなわれた、中院における『法華経』の版木の整備事業である。これは主に善光寺平周辺の在地領主層に働きかけて、檀那を募ったようで、巻第一は埴科郡英田(あがたの)荘松井(松代町)に居住する藤原正長が施主となり、巻第二は芋河(いもがわ)荘(三水村)の住人、大中臣(おおなかとみの)盛家が施主となって奉納された。興味深いのは巻第四で、これは僧頼仲が性阿(しょうあ)・明阿・佐伯氏女(さえきうじめ)・菅原氏女など女性のみ九人を結縁(けちえん)させて、施入させたものであった。これにつぐ巻第五も、やはり女性だけによる勧進によって奉納されたことが知られる。戸隠は戒律の建前から原則として女人禁制策をとっていたが、後世の例からすると当時も中院までは女性の参詣を認めていたらしく、中院の『法華経』翻刻(ほんこく)事業に参加したのもこうした事情によるものだろう。むろん、『法華経』が女人(にょにん)五障罪の典拠となっていたいっぽうで、女人成仏(じょうぶつ)を説く数少ない経典のひとつであったことも影響していたと考えられる。