山間地における荘園の発達

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平安時代も後半になると、全国各地に京都の貴族や寺社の領有する荘園(しょうえん)や別名(べつみょう)・別符(べっぷ)などの所領が形成された。善光寺平で荘園が最初に設立されるのは、平野部ではなく、むしろ山間地の山寺やその周辺の土地であった。

 長元(ちょうげん)元年(一〇二八)に能因歌枕(のういんうたまくら)に戸隠の名前が取り上げられ、一一世紀には京都でも戸隠の顕光(けんこう)寺が山岳修験(しゅげん)の霊場として知られるようになっていた。平安時代には全国各地に山岳寺院が生まれ僧侶(そうりょ)の山林修行が流行した。その時期、「例えば、山居(さんきょ)は金嶺(きんれい)に在(あ)らば、判は吉野郡が下すの類也」とあるように、大和国の例でいえば金峰山寺(きんぷせんじ)の山居上人らは吉野郡衙(ぐんが)に登録・許可されて山岳修行に取りくむのが原則であった。戸隠の修験者も水内郡衙の許可を得て山に入り修行していた時期があった。その後郡衙への届け出なしに修行する修験者もしだいに増えた。文治(ぶんじ)二年(一一八六)の記録によると、長野市周辺の山岳寺院では戸隠顕光寺のほかに善光寺・月林寺(がつりんじ)・青竜寺・小市薗(こいちその)寺があげられ、顕光寺・月林寺は天台山領といい延暦寺(えんりゃくじ)の荘園になり、善光寺は三井寺(みいでら)(園城寺(おんじょうじ))の荘園であった。寺院が延暦寺や三井寺の荘園になるのは、単なる末寺とはちがって、本所(本家)の任命した別当が京都におかれてそこから代官が派遣され、一定の得分(とくぶん)が領家年貢(ねんぐ)として京都に納入されたのである。天台密教で山林修験の寺院でありながら、本所領家の延暦寺や三井寺に年貢や公事(くじ)を納入する義務を負っていた。

 月林寺は窪寺(くぼでら)観音とよばれ、今も安茂里の正覚院(しょうがくいん)に平安仏の十一面観音(木造伝観音菩薩立像として県宝指定)がまつられている。青竜寺は、松代町東条に現存する清滝観音堂の前身と推定され、季節によって滝が水しぶきをあげている。醍醐寺(だいごじ)の清滝信仰が著名であり、東密(とうみつ)(東寺を本山とする真言密教)の影響があったらしい。

 小市(安茂里)も、善光寺や戸隠に向かう犀川の渡し場として早くから開かれた。小市薗寺ははっきりしないが、「薗沖」の地名が残り、鎌倉時代に戸隠の大般若経(だいはんにゃきょう)の写経がおこなわれた場としても知られる。鎌倉時代には小川荘(小川村付近)に属していた。

 こうして善光寺と戸隠を中心とした山岳寺院は、中央の権門(けんもん)寺院と結んで貴族や国司の信仰を獲得した。ことに山間地は信濃特産の麻布の生産や馬の放牧に適しており経済的にも価値が高かった。一二世紀に院政が始まると、上皇の政務機関の職員である院司となった国司は、その地位と権力を利用して女房や縁者の所領を上皇に寄進して院領荘園とする政策をとった。このため、一二世紀後半に登場する皇室領荘園が圧倒的に多くなる。善光寺と戸隠に接する山間地帯には、広瀬荘・丸栗(まるぐり)荘・小曽禰(こぞね)荘や小川荘など多くの院領荘園が分布することになった。この山間地一帯は、京都からの文化がいち早く導入される先進地帯であった。


図4 長野市周辺の地形区分図(小林詢作製)と荘園御厨の分布図

 広瀬荘(芋井)は、久安(きゅうあん)二年(一一四六)に僧行智(ぎょうち)から崇徳(すとく)上皇の御願寺(ごがんじ)成勝寺に寄進され、年貢四丈(じょう)白布百端(たん)を京へ上納した。この僧行智は、延暦寺の僧侶で天皇の宣旨(せんじ)によって僧綱(そうごう)に補任(ぶにん)された僧侶で、治承(じしょう)五年(一一八一)三月六日にはかれの闕(けつ)として聖護院(しょうごいん)の覚実が阿闍梨(あじゃり)に任じられた(『吉記』)。阿闍梨とは秘法を伝授される伝法灌頂(でんぽうかんじょう)をうけ宣旨により任じられた高僧であるから、かれが在地の開発領主とは考えられない。絵師として著名な藤原隆能(たかよし)の子息に行智(ぎょうち)という僧籍に入ったものがいる。藤原隆能の母は高階為行(たかしなためゆき)の女(むすめ)である。高階為行は信濃の国司で、高井郡の芳実御厨(はみのみくりや)(須坂市井上付近)を国免荘(こくめんのしょう)として公認していた人物である。かれが信濃国司の代に広瀬の地を自分の所領とし、娘から孫行智へと伝領され、院領荘園として立券された可能性が高い。

 この地には、「文治三年法泉房」と陽刻された銅造不動明王坐像の小仏が伝来していることが平成十年(一九九八)の荘園調査で発見された。その前年の文治二年(一一八六)三月後白河上皇は、広瀬荘の年貢が未納だとして催促するように頼朝に命令を出している。この時期、法泉房と名乗る修験者(しゅげんじゃ)が広瀬荘で不動明王を念じていたのである。長野市入山上ノ平には、「ホウセンボウ」とよばれる地に、村の共有地があり、義仲の家臣鈴木三郎屋敷跡と伝承されてきた。その関係資料である。明徳三年(一三九二)には広瀬荘内北山村に高梨弥太郎基高の知行(ちぎょう)地があった。応永年間(一三九四~一四二八)には落合対馬守氏幸が勢力をもち、大文字一揆(だいもんじいっき)という連合組織に属していた。室町時代は落合氏が地頭であったらしい。


写真31 葛山落合神社
広瀬荘の鎮守で室町時代の建造物。
(芋井)

 戦国時代には「落合領中広瀬之荘七郷(ごう)」といわれ、入山(いりやま)・上野(うえの)・広瀬・上屋(あげや)・北郷・南郷・桜・鑪(たたら)(以上芋井)・吉沢(茂菅)などをふくむ一帯であった。永正(えいしょう)十五年(一五一八)までこの七郷がまとまって諏訪下社に五〇貫文の造宮役を納入していたが、天文(てんぶん)年間(一五三二~五五)には越後との国境地帯にあって上杉方の勢力が浸透して武田方の諏訪神社への納税が減少した。弘治三年(一五五七)落合氏の葛山(かつらやま)城が武田信玄に攻められ落城したあとは、これらの郷の乙名(おとな)衆が侍となって葛山衆という一揆(いっき)を結成して武田方の軍事力となった。上杉景勝が北信濃四郡を支配するようになると、天正十年(一五八二)観音寺分として三五貫文をふくむ約二〇〇貫文もの土地が島津氏にあたえられた(石垣家文書)。この観音寺は現在も芋井入山の岩戸に存在し、永井氏らの共同の寺院となって守られている。この岩戸に接して葛山落合神社という熊野神社がある。春日造りで寛正(かんしょう)六年(一四六五)七月吉日と天文十六年(一五四七)九月三日に修理されている。善光寺桜小路(桜枝町)の大工せんさえもん父子や上ヶ屋・広瀬の大工によって造営された。広瀬の大工は江戸時代まで存続し、安政六年(一八五九)沢浦観音堂(芋井沢浦)の厨子(ずし)を制作している。

 観音寺や葛山落合神社のある岩戸には「馬場」「屋敷」「町」などの地名が残り、荘官か地頭落合氏の屋敷地が存在していた可能性が高い。平安・鎌倉時代に、この荘園年貢は四丈白布という一二メートルもの長さの白い麻布一〇〇端であった。白布は苧麻(ちょま)(からむし)の皮を剥(は)いだ青苧(あおそ)でつくった麻布(まふ)である。雪で哂(さら)すため白布となり、京都では信濃布とよばれ特産品として著名であった。その原料である苧麻は、山苧(やまそ)・里苧(さとからむし)とよばれ、自生のものもあったが、山間地でよく栽培されたらしい。苧麻は、大麻(たいま)とちがって、種子でなく宿根で育て、初めの芽を焼いて二度目の芽を育てる。七月から八月に苧刈(おがり)といって根から刈りとり、葉をとり水に漬け皮と苧殻(おがら)に分ける。一・五メートルほどの苧殻は燃料や敷物などに利用する。苧皮から被皮を取りのぞく苧引をすると、透きとおった青味のある繊維だけが取りだせる。これが青苧である。青苧だけでも年貢になったり、売買に活用された。

 青苧の繊維を糸に紡(つむ)ぐことを苧績(おう)みという。二~三センチメートルの短い繊維を紡ぐ木綿糸とちがって、一・五メートルという長い繊維を爪(つめ)でこまかに切り裂き口で湿らせながら指で撚(よ)りをかける。一反分の織物には一一〇匁ほどの苧糸が必要で、四〇日から二〇〇日ほどの長い日数が必要であった。織布(しきふ)は地機(じばた)で織る。現代の麻布で代表的な新潟県の小千谷縮(おぢやちぢみ)の場合、幅一尺五寸、長さ三丈二尺の一反もので四〇日かかるという。中世でも秋から春にかけて織りつづけても三反くらいが一般的な仕事量といわれている(永原慶二『新木綿以前のこと』)。

 この広瀬荘の西境には鳥羽上皇領の小川(おがわ)(河)荘があった。同じ山間地のこの荘園では国衙年貢として漆(うるし)が賦課(ふか)されていた。漆樹の実は蝋燭(ろうそく)の原料であり、水漆は塗料になったから、特産品として重用されたのである。こうした山間地では苧麻・漆など山の幸が豊富で生産力が高かったのである。

 丸栗荘については、慶長九年(一六〇四)の信州四郡草山年貢帳(『信史』⑳22)に水内郡丸栗村とあり、曽山(そやま)、塩生(しおぶ)、小鍋(こなべ)とつづくことから中条村付近とされてきた。中条村日下野(くさがの)梅木には丸栗神社がある。長野市七二会中尾字田中にも江戸時代丸栗大宮神社があり、文化四年(一八〇七)松代藩主真田幸専(ゆきたか)が「丸栗」に立ち寄ったことが古文書にみえる(山野井家文書・『臥雲院晋山(がうんいんしんざん)落慶記念誌』)。田尻(たじり)神社(旧丸栗大宮神社)の延享元年(一七四四)三月吉日の棟札(むなふだ)に「信州水内郡丸栗荘春日郷岩草村」とある。市内七二会(なにあい)から中条村日下野一帯の荘園とみてまちがいない。ここは御室(おむろ)御領で京都仁和寺(にんなじ)の荘園であったから、この一帯にはいまも古仏が散見される。御山里(みやまさ)広福寺・日下野正法寺には古い聖観音像が伝来する。臥雲院には鎌倉浄妙寺の雷峯妙霖(らいほうみょうりん)が南北朝期に開山となって建立したという中世の縁起がある。

 小曽禰(こぞね)荘は八条院領であるが不明な点が多く、浅川北郷の中曽根付近かと思われるが、今後の調査課題である。

 このように善光寺から西方の西山(にしやま)地区とも称される一帯は、山間地での特産物生産を背景に平安から鎌倉時代にはもっとも繁栄した文化が開けていた。

 若槻荘は浅川西条から若槻田子付近にあった。多胡(たこ)郷・押田郷が存在した。堀川天皇の中宮篤(あつ)子内親王の証菩提院(しょうぼだいいん)領で、その死後養父の摂関家(せっかんけ)藤原忠実(ただざね)の荘園となり忠通(ただみち)領となったが、大治(たいじ)二年(一一二七)には白河院の皇室領荘園となった。

 太田荘は長野市小島(柳原)、津野(長沼)、長沼・赤沼(同)、吉(よし)(若槻)から豊野町・三水(さみず)村・豊田村・牟礼(むれ)村一帯の荘園である。摂関家領で忠実の女高陽院(むすめかやのいん)泰子の所領で、のち関白忠実から近衛家に伝領された。地頭に惟宗忠久(これむねただひさ)が補任され、その子孫が薩摩(さつま)国島津荘の地頭島津氏となった。南北朝時代には信濃島津氏が成長し、その

子孫が室町・戦国時代には国人島津氏として活躍した。

 四宮(しのみや)荘は長野市篠ノ井塩崎の、四宮一帯である。荘内は北条と南条に分かれており、文治四年(一一八八)当時、仁和寺の荘園で領家は八条院の女房右衛門佐(うえもんのすけ)御局であった。のち仁和寺北院領として証性(しょうじょう)上人や証恵(しょうけい)に安堵された。

 石川荘は篠ノ井上石川・下石川一帯で、二ッ柳郷がふくまれていた。ここも隣接する四宮荘と同じく仁和寺領であった。現在も条里地割の水田地帯が分布する(『県史通史』①②)。

 以上の荘園はいずれも平野部を望む丘陵部一帯に分布しており、棚田を利用した水田、山間の日当たりのよい野畑を利用した畑作、苧麻を栽培する山苧や里苧、材木や薪炭などの山仕事、狩猟や山魚をとる漁労など多角的な農業活動が展開されていた。