千曲川流域の御厨と荘園

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千曲川は当時神にささげる供御(くご)であった鮭(さけ)や筋子がとれる豊かな川であった。一一世紀後半には伊勢神宮造営のために役工夫米(やくぶまい)が全国一律に賦課された。ところがその負担を払えずに借財するものが多くなった。負債の代償として土地を伊勢神宮に寄進し、その荘園になってしまうところが多かった。

こうして伊勢神宮の所領となった荘園を御厨(みくりや)といった。高井郡井上一帯に芳実(はみ)御厨、若穂の綿内・保科一帯に長田(ながた)御厨(保科御厨)、犀川と千曲川の合流する川中島一帯に布施(ふせ)御厨・富部(とんべ)御厨(藤長御厨)、犀川の支流麻績(おみ)川に麻績御厨、千曲川流域に村上御厨(坂城町)などが成立した。伊勢神宮では神饌(しんせん)にするため鮭や筋子の獲得できる河川流域を選んで御厨を設定したので、浅瀬が広がり簗(やな)の設定しやすい地形条件からこの一帯に御厨が集中した。伊勢神宮は、上分(じょうぶん)料として鮭や筋子を桶に入れて運上させ、苧麻(ちょま)でつくった白布を納入させた。寄進を仲介した度会(わたらい)・荒木田(あらきだ)氏などの禰宜(ねぎ)は、給主得分としてやはり白布を収納した。この時代、この一帯からの年貢は麻布がもっとも多かった。

 芳実御厨の一帯を開発したのは本領主源家輔(いえすけ)であった。源氏であるから井上源氏の一族であった。かれは伊勢上分米の支払いができず負物(ふもつ)のかわりに伊勢神宮の禰宜である常秀に所領を寄進し、自分は荘官の地位についた。一一世紀末期の信濃国司であった源国房と嘉承(かしょう)二年(一一〇七)に信濃国司に就任した高階為行(たかしなためゆき)の代には、伊勢神宮の御厨として承認され芳実御厨となっていた。こうした荘園を国免荘(こくめんのしょう)とよんだ。しかし、国内に荘園が増加すると、国司の管轄(かんかつ)する国衙(こくが)領という公領が少なくなり国司の取り分か減少するようになった。このため、院政が開始されると、院と関係をもった新任の国司のなかには、その権威を背景にして新しく立てられた荘園を整理するものがあらわれた。信濃でも、長承(ちょうしょう)元年(一一三二)信濃国司になった藤原親隆は、鳥羽院や美福門院の院司で、摂関家(せっかんけ)の家司(けいし)でもあったから積極的に荘園整理に乗りだした。高井郡の芳実御厨を停止(ちょうじ)し公領にもどした。以後この地は井上郷とよばれ、国衙の管理下におかれることになった。

 隣接する保科付近一帯の河川流域も長田御厨とよばれていたが、これも整理しようとした。伊勢神宮側は長承元年太政官に訴状を提出し、この地は寛治(かんじ)二年(一〇八八)に伊勢神宮に寄進され永久三年(一一一五)宣旨(せんじ)によって外宮(げくう)領となった由緒あるところだと反論した。この訴訟は、長承三年になると御厨の住人である神人(じんにん)が殺害されるという殺人事件に発展した。御厨側は伊勢神宮の祭主を通じて天皇に訴えた。公卿(くぎょう)会議がひらかれ、神人殺害の犯人を調べ庁官が召し連れ京都で尋問し処理するか検非違使庁に送り処理することなどが決まり、御厨として存続することが決まった。

 この地には伊勢神宮の末社として神明社が勧請(かんじょう)され、明治時代まで若穂小出に神明社が残っていた。荘園の名残として「領家(りょうけ)」「在家(ざいけ)」などの地名がいまに残っている。建久三年(一一九二)当時この御厨は「一名保科」とあり、保科御厨と現地ではよばれていた。ここから、毎年布四〇〇段と神馬(じんめ)一匹を伊勢神宮に納入した。馬の飼育がこの地の産業でもあった。

 布施御厨と富部(戸部)御厨も併存していた。詳細は後述するが、この地には布施本荘という荘園が分布していた。篠ノ井布施高田から戸部(川中島町)の上布施・下布施付近と考えられる。伊勢神宮上分料を納入するいっぽう、領家職(しき)は院司とよばれる上皇の家政職員にあたえられていた。全国的に御厨と院領荘園とが競合していたから、この荘園も伊勢神宮領と院領荘園との両属関係にあった。

 千田(せんだ)小中島荘が、元久(げんきゅう)元年(一二〇四)に九条家領としてみえ(『信史』③)、建長五年(一二五三)には九条道家の千田荘が善光寺に不断念仏料として寄進された。千田(芹田)付近と思われるが、安貞(あんてい)元年(一二二七)には千田郷庁官が貢物(こうもつ)を信濃国務の藤原定家に京上している(『信史』④)。千田小中島荘と公領の千田郷とが併存していた。綱島(更北青木島町)に「小中島」の地名があるから(『更北地区の地名』)、下千田から綱島一帯が荘園、上千田が公領であった。上千田は高田の微高地につづく地で洪水被害の少ない地帯で、古くからの郷村が存続していた。下千田から綱島は犀川の氾濫原(はんらんげん)、中州一帯で、そうした肥沃(ひよく)ではあるが洪水の被害をうけやすい地に荘園が形成された。

 今溝荘は荘内に北条があり(『信史』⑤)、南北に二分されていた。古牧の北条から中村・川端付近と考えられる。永万(えいまん)年間(一一六五~六六)に京都松尾社の社務(神官の長)であった秦相頼(はたともより)が立券した荘園で、社務職は頼康・相能(ともよし)・相久(ひさ)と相伝された。仁治(にんじ)元年(一二四〇)には社務相久と預所頼康の子康雄とのあいたで訴訟となっていた(『信史』補)。鎌倉時代にも松尾社の社務が領家職の得分をもっていたのである。

 鐘鋳(かない)川から分水する中沢川の灌漑(かんがい)地帯がほぼ北条・中村一帯である。この地域では南北に流れる用水堰(せぎ)も中沢堰とよぶ。中沢川が直角に屈曲する北条は微高地で、「永正十二天(一五一五)六月廿四日定阿」「天文六年(一五三七)」の板碑(いたび)が出土している(「長野盆地周辺の板碑について」)。中村にはどじょう堰・団子堰・本流堰などの分岐点があり、その付近に中村館跡があった。この一帯は、善光寺裏山の湯福川・堀切沢・宇木沢が氾濫し土砂の押し出しに見舞われた洪水災害地帯であった。松尾社の経済的支援を得て用水路の開削(かいさく)が実現して荘園となったのである。今溝という名前も新しく開発された用水路であることを示している。

 東条(ひがしじょう)荘は水内・高井両郡にまたがる散在の郷村の集合体で、鳥羽上皇の安楽寿院領として成立し、のちに八条院領となった(『信史』③)。元暦(げんりゃく)元年(一一八四)壮内狩田(かりた)郷(小布施町雁田)領主職に平繁雅が復帰し(『信史』③)、嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)には狩田郷東条村に和田隠岐入道(おきにゅうどう)、狩田郷中条(小布施町中条)に得宗(とくそう)被官の矢野伊賀入道、荘内和田郷(古牧西和田・東和田)に和田三河入道がおり、荘内の南大熊(中野市大熊)、本郷(須坂市本郷)、甕(もたい)(芹田母袋)、法連(不明)、新保(しんぽ)郷(中野市新保)、小布施(小布施町小布施)、部木田(へきだ)(中野市壁田)、治(不明)、真野(しんの)(中野市新野)、矢島(小布施町矢島)、堤(小布施町堤)などがふくまれていた。石渡戸(朝陽石渡)、三和条(三輪)、富武(古里富竹)、米持(よなもち)(須坂市米持)、南原(同南原)、北原(同北原)なども荘内であった。

 英多(あがたの)荘は松代町一帯で、松井(松代町清野)、平林屋敷(同豊栄(とよさか)平林)、桑井(くわのい)屋敷(同豊栄桑根井)、東条(同東条)がふくまれていた。元永(げんえい)・保安(ほうあん)年間(一一一八~二四)に関白藤原忠実の所領で、のちに近衛家に伝領された殿下御領である。