富部・布施御厨の痕跡

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川中島町の御厨(みくりや)から戸部付近一帯が富部御厨の中心地であり、篠ノ井の山布施から布施高田付近が布施御厨で、ふたつの御厨が隣接していた。荘園領主である伊勢神宮ではふたつの御厨をあわせて藤長御厨として登録していた。現地での呼称と中央での呼称がずれていたのである。この地からは、伊勢神宮の内宮(ないくう)と外宮(げくう)に毎年上分(じょうぶん)料として布五〇端、長日御幣(ごへい)料日別代として布二丈を納入した。この長日御幣料は、長期間の連日の神事に奉納する御幣の用途で、二丈(二〇尺=約六メートル)もの麻布(まふ)を負担したのである。御厨には中条郷や杵淵(きねぶち)郷などいくつかの郷がふくまれていた。


図5 布施御厨・富部御厨の痕跡


図6 布施館と用水 (昭和36年2月測図)

 これらの郷には数多くの伊勢神明(しんめい)社が勧請(かんじょう)された。篠ノ井地区の岡神明社、信里神明社、山布施の布施神明社、小松原神明社、横田神明社、杵淵(きねぶち)の岡神明社、川中島町地区の戸部神明社などがいまも存続している。このうち、最初の岡神明社はその地字を「神明」という。元徳(げんとく)二年(一三三〇)には富部御厨杵淵郷に属しており、富部御厨神明社とよばれ、社僧実秀が大般若経を書写した。その一部が今も丸子町法住寺や小諸市釈尊寺に伝来している。こうした郷ごとの神明社は鎮守とされ、伊勢神宮に納入する御贅(みにえ)や公事物(くじもつ)をいったん納入保管し潔斎したあと、十月ごろまとめて伊勢まで運上した。

 この地に残る布施御厨の痕跡(こんせき)としては、小松原(篠ノ井)の犀口(さいぐち)に布施神明社があり、そこで取水した上中堰(じょうちゅうせぎ)が布施高田や布施五明一帯を灌漑(かんがい)している。この上堰と中堰のあいだを蛇行(だこう)しながら流れていた河道跡が残っている。現在でも五〇センチメートルから高いところでは二メートルほどの段差がある。江戸時代初期の寛永年間(一六二四~四四)に描かれた「松代封内(ほうない)図」には、この川が犀川・千曲川と並んではっきりと記載されている。犀川の一支流御幣(おんべ)川であった。史料上「篠井」ともよばれた。この川をはさんで、西側に布施五明地籍があり、中条集落がある。建武三年(一三三六)に布施御厨中条郷一分地頭の市河孫十郎が知行していた郷村がこの地である。

 その東側に布施高田地籍が位置する。この地も自然堤防上の微高地で、内堀地区に「内堀」と二ヵ所の「佃(つくだ)」地名が残っている。現在でも上堰の分流である御幣川堰の用水がほぼ方形に屈曲し、津崎町の旧郵便局北側には堀跡があった。東西一二〇メートル・南北一三〇メートルの居館跡が存在していたことがわかる。東西の南側は北側より五〇メートルほど短く、台形の居館跡となる。このような形は、足利氏の鎌倉時代の居館跡である鑁阿寺(ばんなじ)(茨城県足利市)とよく似ている。この布施高田館跡は、犀川の支流旧御幣川の自然河川を利用して館(やかた)を造成し、河川を用水や船の交通に利用していたものと考えられる。その門前に前田や佃の直営田があって、下人や所従(しょじゅう)を使って経営した鎌倉武士の館跡と考えられる。高田地蔵堂では、阿弥陀・地蔵・薬師の弥陀三尊種子(しゅじ)の武蔵型板碑が本尊としてまつられている。幅二八・五センチメートル、高さ五四センチメートルで鎌倉後期の様式的特徴をもつ。この布施高田館跡こそ布施惟俊(これとし)に始まる布施氏の屋敷跡であった可能性が高い。

 布施高田の東方には、篠ノ井会(あい)集落が島状の微高地上に位置する。ここにも、中堰の分流である西堰の用水路がほぼ方形に屈曲し、一部を堀跡と土塁(どるい)跡で囲まれた居館跡がある。東西二三〇メートル、南北一八〇メートルで、本郭(ほんかく)部分には「殿屋敷」「宮内」「古町」などの地名が残る。この居館跡を横田城といっている。集落全体が居館跡のようで、可毛羽(かもは)神社の東側には、用水が半月形にまわり戦国時代の馬出し郭(くるわ)跡も残っている。養和(ようわ)元年(一一八一)越後平氏の城資職(じょうすけもと)が木曾義仲を討つために大軍を率いて陣をとった場所について、『吾妻鏡(あずまかがみ)』は「筑摩河辺」、『源平盛衰記(じょうすいき)』は「筑摩河の耳横田河原」、『平家物語』は「筑摩川横田荘」と記している。義仲は資職を追ったあと横田城に居住したと『平家物語』に記されている。横田の居館跡は平家・源氏両軍の陣がおかれた場であった。この一帯が信濃平氏の布施氏や富部氏の勢力下にあったがゆえに、越後平氏の城氏も木曾義仲を討つためこの地に陣をおいたのである。

 その後も、応永七年(一四〇〇)の大塔(おおとう)合戦では、守護小笠原長秀が陣をおいた場所が「川中島横田」(『大塔物語』)、「横田御陣」(『市河文書』)とあるから、この地が陣として適地であり、それゆえ繰りかえし戦場となったことがわかる。戦国時代の川中島合戦でもここが改修されて使用された。このように、旧御幣川の自然河川を利用した一帯には、平安・鎌倉から戦国時代にかけての武士の居館跡が分布する。

 他方、犀口から取水した下堰の流路一帯には、富部御厨の遺跡が集中する。下堰は川中島小学校をすぎて古森沢付近で荒沢堰と富部堰に分岐する。富部堰は北富部・上布施の集落の微高地上を掘りすすみ、常泉寺の東側で宮堰を分岐する。この常泉寺は東側に大木の欅(けやき)と土塁跡を残しており、中世の居館跡である(図6)。宮堰は下布施と神明の集落を通って岡神明社の門前に出て分水している。この用水路が鎌倉時代から存在していた岡神明社を意識して開削(かいさく)されていたことがわかる(写真32)。


写真32 富部御厨岡神明社
元徳2年この神社で大般若経が写経された。 (藤ノ井西寺尾)

 いっぽう、常泉寺横を南流した富部堰は、さらに更級斗女(とめ)神社の裏で大御堂(おおみどう)堰を分岐して小森へすすむ。ここにも居館跡の伝承がある。富部堰は空田堰、籾子田(もみこだ)堰などを分流して東福寺へとすすむ。つまり、富部堰は大御堂といい東福寺といい、廃絶した大寺院跡一帯を灌漑している。

 この大御堂堰の一帯が平成十年(一九九八)長野冬季オリンピックの開閉会式場となったため、発掘調査が実施され、南宮遺跡が出土した。六万二〇〇〇平方メートルという広い調査面積のなかから、竪穴(たてあな)住居跡一一二三軒、掘立柱建物、柵(さく)跡、小鍛冶(こかじ)跡、土壙(どこう)、井戸跡二八、溝跡四五一条などの遺構が出土した。遺物は土師(はじ)器の坏(つき)や椀(わん)、皿などが中心で、灰釉(かいゆう)陶器の椀、緑釉(りょくゆう)陶器の皿、刀子(とうす)、紡錘車(ぼうすいしゃ)などのほかに中国越州窯(がま)の青磁鉢(せいじばち)や煕寧元宝(きねいげんぽう)などの北宋銭が出土した。土製品では「宗清(むねきよ)」銘の印が出ている。いずれも一〇世紀中期から一一世紀後半までの時期の大規模集落跡であることが確認された(『南宮遺跡発掘調査概報』市埋文センター)。とくに注目されることは、遺跡内を通っている大御堂堰の下部に大きな自然流の砂礫(されき)層が出土していることで、現在の用水堰が平安時代の自然流を継承していることがほぼ確認できた。しかも、これらの大集落群が、平安時代後期に千曲川の氾濫による土砂に埋没して廃絶していたことが判明した(市誌平安集落遺跡研究会報告)。

 千曲川の氾濫については、平安前期の仁和(にんな)四年(八八八)の大洪水が文献史料と発掘調査の両面から確認されているが、陽明文庫所蔵の『行親記(ゆきちかき)裏文書』から、平安後期の永治~久安年間(一一四一~五一)に太田荘でも「前年大洪水により苧麻(ちょま)ことごとく流損」との記録がある。太田荘の立地する長沼・豊野町一帯の下流の中野市立ヶ花(たてがはな)地区は、千曲川が善光寺平から流出する狭隘(きょうあい)な排水口部分にあたっているため、現在でも滞水(たいすい)・洪水をもたらす。千曲川は平安後期にも大きな洪水をおこし、南宮遺跡の大集落が洪水被害で大打撃をうけたのである。


写真33 南宮遺跡(冬季長野五輪開閉会式場)
千曲川の氾濫で埋没した平安時代の住居跡群が出土した。 (篠ノ井東福寺)

 東福寺という地名は、応和(おうわ)年間(九六一~九六四)に建立された天台宗補陀楽山(ふだらくさん)東福寺に由来するという口碑(こうひ)がある。大御堂堰の地名や発掘調査から、平安時代この一帯に大集落と大寺院が存在していたことはほぼまちがいない。それが千曲川の洪水で大被害をうけ村とともに廃絶した。一二世紀にこの一帯が再開発されて富部御厨になった。南宮遺跡に隣接して岡神明社が位置する。ここを灌漑する宮堰は、平安後期から鎌倉時代に御厨開発・経営のための幹線水路であった。