高田・市村郷から市村高田荘へ

584 ~ 588

保元(ほうげん)元年(一一五六)七月十日崇徳(すとく)上皇と左大臣頼長は白河院に兵を集め、後白河院・関白忠通らとの決戦に出た。京都での政争に武士が参陣して戦闘がおこなわれたはじめての事件であり、世に保元の乱とよばれた。このとき、崇徳上皇の院侍(いんざむらい)としていち早く御所に参陣したのが平正弘の子息家弘一門であった。頼長の家侍や家政職員となっていた平忠貞父子らも頼長とともに御所に入った。しかし、平清盛と源義朝(よしとも)の軍勢の前に敗北し、平忠貞父子・郎等は七月二十八日六波羅(ろくはら)で清盛によって斬殺(ざんさつ)・処刑され、家弘一門は翌三十日源義康によって大江山で処刑された。一門どうしが血で血を洗う武家の時代が到来した。八月三日平正弘は子息家弘一門に縁座して一命を助けられ陸奥(むつ)に流罪となった。

 この平正弘は散位という五位クラスの下級貴族であったが、信濃に更級郡麻績御厨(おみのみくりや)(東筑摩郡麻績村)と公領の水内郡高田郷・市村郷・安曇郡野原(やばら)郷(南安曇郡穂高町付近)の四ヵ所の所領を有していた。かれの父貞弘は出羽守、伯父正家は信濃守であった。かれが信濃で採用した雑色(ぞうしき)と京都から下向した郎等とは仲が悪かった。馬盗人が入ったとき、郎等の讒言(ざんげん)で雑色が逮捕された。しかし日ごろ法華経読誦(どくじゅ)の功徳によって救われたという説話が『今昔物語』にのっている。正弘は信濃国司の子孫として信濃に多くの所領をもっていた。京都での子息家弘、頼弘らは刑場の露と消えたが、信濃の所領に育った子息の布施惟俊(これとし)や孫の戸部家俊は源平争乱のなかで活躍したことは前述した。かれは陸奥に流罪になったから、おそらく信濃との交流もあった。

 それから半年後の保元二年三月二十五日太政官符が発せられて、平忠貞・正弘の所領はすべて没収され、後院領(ごいんりょう)とされた。文治(ぶんじ)二年(一一八六)には市村荘と野原荘もともに院御領となり、建久二年(一一九一)には、市村高田荘として京都の長講堂領となっていた。この荘園からは、長講堂での年中行事のたびごとに負担する物資が決められており、それが年貢公事(くじ)であった。その内容をみると、つぎのようである。

正月元旦  元三雑事(がんざんぞうじ)  御簾(みす)七間、御座(ござ)七枚、伊予簾(いよすだれ)五枚

            殿上(でんじょう)京筵(むしろ)畳四枚、垂布(すいふ)一段、砂七両

三月    御八講   砂一二両

四月    御更衣(こうえ)料  木賊(とくさ)五連(れん)

七月    一四日間  門兵士三人

十月    御更衣料  畳四枚、移花二十枚

 この荘園は領域の境である四至(しいし)が確定された荘園ではなく、市村郷と高田郷という二つの郷からなる散在型の荘園であったから、これらの年貢公事は二つの郷で分担したらしいがその内容は不明である。北信濃から京都での年中行事ごとにその用途雑事を納入するために京都まで運上することは大変な負担であり困難であった。百姓や在家の抵抗も大きく、鎌倉時代初頭には三月・四月・十月の行事用途は勤めなくなり、毎年正月の御簾、伊予簾、垂布だけを勤めるようになっていた。七月の門兵士三人分は負担していた。御簾や御座といっても法皇の法事で使用されるものであったから、大文三枚・小文三枚・紫一枚というように文様や規格が決められていた。信濃でこれらの御座を制作する技術はなく、その費用だけを負担して京都で購入して納入したらしい。

 この市村高田荘は、現在の長野市北市・南市地籍(芹田)から高田地籍(古牧)にあたり微高地上に位置しており、洪水の心配のない安定した耕地条件にある(図7)。それは逆に水の確保が困難であることを意味する。旧高田の産土神(うぶすながみ)は守田廼(もりたの)神社である(写真34)。この神社は誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とするが、もとは八幡社といい建久年間に頼朝が善光寺参詣のさいに神饌(しんせん)を奉納したと伝承している。この地はなぜか、善光寺周辺に発する沢水など河川が集中する場所となっている。北から宇木沢の三輪幹線が条里区画に沿って一直線に南下し、堀切沢の松林幹線が北西から斜めに合流し、さらに西方から中沢川が北八幡川に合流する。北八幡川は鎌倉時代には裾花川であったから、善光寺周辺の沢水を利用した灌漑(かんがい)用水がすべてこの地点に集中させられている。現在でもこの神社の東側には巨大な滞水(たいすい)池がつくられ、同時に六ヶ郷用水の取水口にもなっている。ことに北八幡川はこの神社を西から南側を取り囲むように屈曲して深く掘り窪(くぼ)められて東に向かい、北側も中沢川によって囲まれている。周囲を河川で囲まれた居館跡であったものと考えられる。ここで集められた用水は、北八幡川が悪水払いの役割を果たしている(図7)。いわば、この神社は高田郷にとっての水難除去の神である。


図7 長野市街地の主要灌漑水路図と高田郷


写真34 守田廼神社
周辺の用水路が集中する地点に祭られた堰神。
(古牧高田)

 高田郷の灌漑用水は、これより南の南八幡川より取水している。中堰が上高田の条里水田を灌漑し、前田堰・神戸用水・五厘堰(こどぶ堰)などが上高田・南高田の条里水田を灌漑するようになっている。とくに、南八幡川から中堰を取水する東側に、中沢館跡が残っていた(図7)。こうした用水体系は、高田郷が南八幡川から取水した灌漑用水に依存し、北八幡川以北の用水から完全に独立していることを意味する。おそらく、中世には湯福川・堀切沢・宇木沢などの沢水が鉄砲水や土石流となってこの一帯に集中したであろうから、それを守田廼神社一帯で塞(せ)き止めることが大切だったのである。こうした用水体系が実現したことによって、高田は洪水被害を避けることができ、南八幡川からの取水によって安定した耕地条件を確保できたのである。

 いっぽう、市村郷は乱流した犀川の渡し場にあたっており、対岸の小島田(おしまだ)郷や隣接する河居(かわい)郷とともに交通の要衝に位置していた。この居館跡とみられる南市神社の前は浸食崖(しんしょくがい)で一メートルほどの落差があり、旧河道跡であったことがわかる。この居館跡は河川に面していたのである(図9)。

 市村高田荘全体として地頭が設置されたかどうかは不明である。ただ、市村郷を名字の地とする市村小次郎景家とよばれた御家人がおり、鎌倉幕府滅亡のとき市村八郎左衛門入道は所領を没収されていた(『信史』⑤)。この市村景家は寛元二年(一二四四)に隣郷の千田郷に住む千田氏と紛争をおこしており、千田判官代入道蓮性(れんしょう)が禁令を破って人身売買をしていると幕府に訴えた。市村氏の郷内の百姓か被官が年貢負担や飢饉(ききん)をさけるために人身売買をせざるをえない状況に追いこまれており、隣郷の千田郷の地頭がそれに関与したと主張したのである。裁判で千田氏にそのような事実がないことがはっきりし、逆に市村景家は讒訴(ざんそ)の罪に問われている。