四宮荘の実像

588 ~ 591

鎌倉時代後半から南北朝時代になると、善光寺平の農村生活もかなり具体的な様相がわかるようになる。更級郡四宮荘(篠ノ井塩崎)はすでにみたように仁和寺(にんなじ)を領家とした荘園であったが、鎌倉時代後半には地頭は北条と南条で異なっていたらしい。荘内北条は円明という武士が地頭であったが、鎌倉幕府滅亡によって建武二年(一三三五)に諏訪円忠(えんちゅう)がかわって地頭職を獲得した。円忠は鎌倉在住の諏訪金刺(かねさし)氏出身で、はじめ北条氏の被官(御内人)であったが、京都との関係からいち早く足利尊氏の奉行人となって活躍し、天竜寺開山夢窓疎石(むそうそせき)を崇信していた。貞和(じょうわ)二年(一三四六)になってかれは荘内北条の上分を天竜寺に寄進し、その配分額を表1のように決めた。領家仁和寺と天竜寺関係の子院に四〇〇貫文を上納したのである。このほかに荘園管理をおこなう荘主のための収入分を差し引き、残金は天竜寺が三分の二、雲居菴が三分の一で配分するように規定した。四宮荘北条だけからでも四〇〇貫文をこえる収益を確保した。当時は銭一貫文に米一石が相場であったから、現代の小売米価一石約七万円前後で換算すると三〇〇〇万円以上の額にのぼる。

 この年貢公事(ねんぐくじ)という税金を負担した四宮荘の百姓らはどのような社会生活を営んでいたのか、円忠の注進状をさらに分析してみよう。課税される田畑と在家は検注によって確定され定田(じょうでん)・定在家とよばれ、免税となった田と在家は除田とか免田・免在家とよばれた。この荘園では元亨(げんこう)年間(一三二一~二四)に検注が実施され、その結果が踏襲されていた。


表1 四宮荘北条の上分の配分額

 それによると更級郡四宮荘北条は定田四一町九段、在家三五宇が課税地として土地台帳に登録された比較的大きな村落であったことがわかる。このうち、長谷寺(はせでら)と鎮守や三(見)林薬師の仏神田が免税地とされ、地頭である諏訪円忠一族の給田も免税とされた。三五軒の在家のうち、領家年貢を負担するものは二五軒で、残り一〇軒は年貢免除のかわりに地頭の諏訪円忠らに納税した。この結果、残った定田二八町一五段と在家二五宇に年貢公事が賦課されたのである。


表2 元亨年間の検注からみる四宮荘の規模

 この村では、公式の検注では登録されない耕作地が隠田(おんでん)として存在しており、それらの収益が在地に蓄積された。在家も検注で登録されない農民もいた。立場は違っても、村人として長谷寺や鎮守の祭礼は共同でおこなった。その長谷寺は今も長谷観音として住民の信仰を集め、鎮守は中郷(なかごう)神社として存続している(写真35)。三林薬師は今はないが、山中に「薬師山」「見林」という地名としてその痕跡(こんせき)が残っている。この周辺の用水を調査すると、南方では長谷寺方面の沢水を集めた用水路と、北方の石川から取水し沢水を集めた用水路が中郷神社の前で合流し、その前方の条里区画の水田を灌漑(かんがい)する構造になっている。しかも、この合流した用水を堀に引きこんで中世の居館跡が営まれていたことが発掘調査で判明した。二重の堀で囲まれたもので、内部には井戸跡も発見された(第五章第四節参照)。一四世紀ごろからこの館が形成され、室町時代には二重の堀が発達しこの館の主人が全盛期を迎えていた。諏訪氏一門か四宮氏か室町時代の土豪塩崎・桑原氏など侍名字のものの屋敷と考えられる。文明十二年(一四八〇)四宮荘の桑原六郎次郎貞光が「家作」をおこない諏訪頭役を一時延期したことがあった。屋敷の普請は大事であった。領主の交代はあっても、長谷寺や鎮守中郷神社は鎌倉時代から変わらずに現在まで存続してきたのである。


写真35 四宮荘鎮守の中郷神社
鎌倉時代には「鎮守」といわれた。
(篠ノ井塩崎四野宮)


図8 四宮荘北条の景観図