善光寺平の公領

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善光寺平では、荘園(しょうえん)や御厨(みくりや)と比較して国衙(こくが)の管轄(かんかつ)した公領の分布は少ない。松本平では荘園がわずかに捧(ささげ)荘(松本市)ひとつで、ほかはすべて公領が分布していたことと対照的である。善光寺平の公領の分布は、千曲川流域と扇状地中央部の二つに大別される。

 前者の千曲川流域の公領では、まず長野市村山(柳原)と須坂市村山の渡し場一帯に存在した村山郷がある。治承(じしょう)四年(一一八〇)九月木曾義仲の方人(かたうど)として村山七郎義直が信濃国市原の決戦に出た(『信史』③)。これにつづく越後平氏との戦闘の功もあって、義直は翌養和元年(一一八一)頼朝から村山と米持(よなもち)(須坂市)の知行(ちぎょう)を安堵(あんど)された(『信史』③)。この地を名字とした地頭村山氏は越後に移り上杉氏に仕え存続した。

 吉野郷はいま地名を残さない。文治(ぶんじ)二年(一一八六)には村山郷とともに善光寺領となっている。吉野は布野(ふの)郷の誤字で村山の南方布野(柳原)と推定する説があり、中越(なかごえ)字古野(吉田)の誤字とみる説もあるが、不明である。千曲川流域に存在し洪水で消滅した郷村である可能性が高い。

 栗田郷(芹田)も別名栗田寺とよばれ公領であった。村山義直とともに義仲に味方した栗田寺別当大法師範覚(はんがく)がいる。決戦場の市原は市村(芹田南市・北市)と考えられるから、栗田とは目と鼻の先である。栗田城跡が残り現在も台形居館の形をとり、一部に五メートルほどの土塁跡上に日吉神社が祭られている(図10)。発掘調査でも一五世紀前半までの遺物や遺構が見つかっている。


図9 鎌倉時代善光寺平の荘郷分布図

 井上郷(須坂市井上付近)は高井郡に属しているが、ここも千曲川をはさんで両岸にわたっていたものと考えられる。芳実(はみ)御厨が一二世紀に荘園整理にあってから公領になったところである。対岸が長池郷である。長池郷は南長池(古牧)・北長池(朝陽)一帯で、八幡川が千曲川の自然堤防にぶつかった流末に相当するため、その地名からわかるように湿地帯であった。鎌倉時代末には三善氏、和田氏、原氏ら御家人の所領が散在していた。市村郷は前述したからはぶく。

 河合郷は、犀川と千曲川の合流する氾濫原(はんらんげん)に位置し、川合新田(芹田)と川合(更北真島町)にわたって犀川の両岸に分布する。真島郷(更北真島町)も犀川流域の中州で微高地に立地する。いずれも文治二年には善光寺領となっており、公領が渡し場であるがゆえに、津料や橋料などの収益が善光寺に寄進され用途料にあてられていた。


図10 栗田城跡 (芹田栗田)

 小島田(おしまだ)郷(更北小島田町・松代町小島田)も氾濫原の中州地帯にある。永徳三年(一三八三)には小笠原清順から長秀に譲与されており、早くから守護など公権力の支配する地であった。戦国時代には諏訪社領や飯縄(いいずな)領など寺社領もあった。

 小市・窪寺(くぼでら)(安茂里)なども文治二年天台御領となっていたが、ここも犀川の渡し場であり、公領であった。その津料が天台山領顕光寺(戸隠神社)に寄せられ天台御領といわれた。これら千曲川・犀川など大河川流域の渡し場や中州、自然堤防上に公領が分布し、交通の要衝(ようしょう)として津料や橋料などが善光寺・戸隠神社の修理料に寄進されていた。以上の公領はいずれも、千曲川や犀川の流域にある微高地に立地し、洪水の危険性の高いところであった。

 つぎに扇状地上の公領の郷村についてみよう。まず後庁(ごちょう)郷(東後町・西後町付近)が善光寺門前の南大門の南、裾花川の旧流路の河岸段丘上に位置する。国衙(こくが)の出先機関で在庁らの拠点である後庁があった場所である。北信濃の四郡をさす「奥郡」の公領支配の中枢機関がおかれた。

 小井(こい)郷は中越(なかごい)(吉田)一帯に比定される。鎌倉時代北条得宗(とくそう)被官の所領が散在していた。平林郷は古牧の平林一帯に相当する。室町時代には最明寺菩提所であったとの記載がある。善光寺奉行人原氏の知行地であったが、その後、北条得宗領になったものと推定される。

 これら後庁郷・小井郷・平林郷などはいずれも扇状地の中央部にあり、洪水の心配のないところで条里地割の水田がよく残っていた一帯である。

 千田郷は芹田の上千田・中千田一帯である。安貞(あんてい)元年(一二二七)十月に千田郷庁官が信濃国務を見ようとしていた藤原定家に年貢を届け、十二月にも干桑(ほしくわ)・梨(なし)・銭五貫文を持参している(『信史』④)。庁官とは後庁の在庁をさし、千田郷は在庁官人が知行していたことがわかる。寛元二年(一二四四)千田判官代蓮性(れんしょう)なる武士は、御家人であるとともに在庁であった。「在庁らは皆当世の猛将で国司の命令にはしたがわず国務なきに等しい」といい、「国内には御家人として将軍家に近侍する勤厚(きんこう)の輩(ともがら)二〇〇任も名主(みょうしゅ)として居住する」と『明月記』が記載している。千田氏はその典型的な事例の武士であった。中千田の字「館沖(たちおき)」に東西一〇〇メートル・南北七五メートルの堀跡で囲まれた居館跡が明治時代まであった。

 漆田(うるしだ)郷は中御所の字「漆田」一帯であり、観音寺は頼朝の善光寺参詣のさいに建立されたという伝承が残る。この寺には「嘉暦(かりゃく)元年(一三二六)八月」の銘のある小さな緑泥片岩の板碑(いたび)が伝来している(写真36)。嘉暦四年に漆田郷地頭が諏訪頭役を勤仕した記録もある。


写真36 観音寺に伝来する嘉暦元年の板碑 (中御所)

 これらの公領はいずれも善光寺・後庁周辺の扇状地で洪水被害の少ない安定耕地に立地する。その灌漑(かんがい)用水をみると面白いことに気づく。後庁郷・小井郷・平林郷の三公領はいずれも鐘鋳(かない)川の灌漑地帯に立地する。松尾社領今溝荘北条を灌漑する中沢川も鐘鋳川から取水している。また八条院領東条荘和田郷や吉田郷も鐘鋳川の灌漑地帯である。これらの一帯は荘園と公領が入りくんでおり、鐘鋳川の開削(かいさく)なしには水田化が困難であった地帯であった。この荘園・公領は平安末期には成立していたのであるから、自然流を利用したとはいえ、鐘鋳川は後庁の国衙権力と八条院や松尾社など権門寺社の荘園領主との共同開発であったと考えられる。鐘鋳川は取水口と排水口部分との標高を比較すると、ほぼ同じか後者のほうがやや高く、地元では逆川(さかがわ)とよんでいる(写真37)。流末での用水利用で流速が出て流れる用水路であった。

 高田郷・長池郷などは裾花川の旧川道の八幡川を利用する。漆田郷・千田郷・栗田郷などは裾花川から取水した古川堰・計渇(けかち)川・漆田川を灌漑用水とする。これらの取水口はいずれも裾花川であり、しかも後庁郷内に分布していた。これらの用水路の開発は、国衙在庁権力の影響の強い用水体系によったものと推測される。