善光寺平の地頭御家人

597 ~ 601

鎌倉時代に善光寺平でどれほどの鎌倉幕府の御家人がいたのか、その正確な数は不明である。しかし、最近、建治元年(一二七五)幕府が全国の御家人に課税して京都六条八幡宮の造営をおこなったときの名簿が発見された。それからおおよその人数を知ることができるようになった。

  全国  四六九  鎌倉中 一二三  武蔵国 八四  相模国 三二  甲斐国 一二

  信濃国  三二  水内郡 五  埴科郡 二  更級郡 四  高井郡 五  小県郡 三  佐久郡

           四  伊那郡 二  安曇郡 一  筑摩郡 六

 信濃は国別では武蔵・相模についで三番目の人数をほこる。木曾義仲の分国であっただけに鎌倉幕府の軍事的基盤であったことがわかる。善光寺平の四郡では次の一六人を数え、信濃全体の約半分におよぶ。

若槻下総前司、同伊豆前司跡、栗田太郎跡、須田太郎跡、窪寺(くぼでら)入道跡、高梨判官代跡、和田肥前入道跡、中野四郎左衛門跡、市村右衛門跡、河田次郎跡、四宮左衛門跡、井上太郎跡、村上判官代入道跡、同馬助跡、出浦蔵人跡、屋代蔵人跡


写真37 裾花川から取水した鐘鋳川
舌状台地の突端部を等高線にそって流れる。

 奥郡といわれたこの一帯は、源氏将軍と主従関係を結んだ御家人らが集中していた。しかし、はじめからそうであったわけではない。治承(じしょう)四年(一一八〇)九月義仲が北信に進出し市原で戦闘したとき、その方人(かたうど)となったのはわずかに善光寺領村山郷の村山義直や栗田寺別当の大法師範覚の二人であった。善光寺の本所三井寺(みいでら)や戸隠顕光寺が源氏方に味方したためであり、それはむしろ例外であった。善光寺平一帯は信濃平家の勢力範囲であった。越後平氏城氏の方人となったのは笠原頼直(中野市)、保科権八(ごんはち)(若穂保科)、布施惟俊(篠ノ井布施高田)、富部家俊(川中島町御厨(みくりや))とその郎等杵淵重光(川中島町杵淵)らで、横田河原の決戦で活躍している。布施御厨・戸部御厨・保科御厨・笠原御牧など千曲川流域一帯は、信濃平家の拠点であった。

 鎌倉殿となった頼朝は義仲の家臣団をよほど警戒したらしい。井上太郎光盛は義仲のもとで活躍し保科太郎や小河原雲藤三郎(須坂市小河原)を家侍としていた勢力のある武将であったが、頼朝は早くから警戒し、一条忠頼と謀反(むほん)を企てたとして元暦(げんりゃく)元年(一一八四)に駿河(するが)国蒲原(かんばら)駅(静岡県庵原(いはら)郡蒲原町)で殺害した。かわって、光盛の家人であった保科・小河原の両人を御家人に取り立てた。源氏保科氏が誕生した。

 頼朝は信濃平氏出身者の処罰にも寛大であった。富部御厨の富部家俊の子孫は頼朝の御家人になっているし、平正弘の子布施惟俊の子孫も御家人として取り立てられ、布施氏として存続した。東条荘狩田(かりた)郷(小布施町)の領主平繁雅も一度所領を没収されたが、旧領の領主職を回復するように頼朝に申請し安堵(あんど)されている。この一族は平姓和田氏として和田郷・長池郷・狩田郷などの地頭となり、三河入道・隠岐(おき)入道・石見(いわみ)入道の三つの門流にわかれて勢力を伸ばしていった。

 正応(しょうおう)三年(一二九〇)には和田石見入道が後深草院の女房二条の善光寺参詣のさいその宿所を提供し、文永二年(一二六五)和田石見入道仏阿が善光寺奉行人として知られる。その館は高岡にあり「まことにゆえある住まい、辺土分際には過ぎたり」といわれるほど京都文化の影響下にあった。この石見入道は「いと情けあるものにて、和歌を詠み、管弦などして遊ぶ」ことができたという歌人でもあった。和田石見前司の娘女子跡の所領が長池郷にあった。この一門には隠岐前司入道を名乗る一族がおり、和田隠岐前司繁有は諏訪社頭役(とうやく)の流鏑馬(やぶさめ)に必要な名馬の借用を石見入道に申しでたが、「古敵の宿意」を理由に断られたという説話がある。正和(しょうわ)四年(一三一五)隠岐守繁長は小県郡丸子町の霊泉寺(れいせんじ)の木造阿弥陀如来坐像を造営した(写真38・39)。元亨(げんこう)三年(一三二三)鎌倉円覚寺での北条貞時一三回忌では和田隠岐入道が馬一匹を寄進し、嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)当時、東条荘狩田郷内東条村に所領を有していた。この地は北条氏得宗(とくそう)被官の所領が多く分布しており、その一員の可能性が高い。和田肥前入道跡は建治元年(一二七五)京都の六条八幡宮造営のさい七貫文を負担した有力者であった。


写真38 霊泉寺 (小県郡丸子町平井)


写真39 和田氏一門の隠岐守平繁長が造立した霊泉寺阿弥陀像

 幕府内部の政争によって有力御家人が北条氏によって排斥されていった。善光寺平でも、井上頼季が建久元年(一一九〇)に原因不明で誅(ちゅう)せられた。建仁(けんにん)元年(一二〇一)には越後平氏の城小太郎資盛(すけもり)にたいし謀反を理由に追討軍が発せられた。幕府は上野国磯部郷(安中市)にいた佐々木盛綱に追討を命じ、信濃・越後・佐渡の御家人を動員した。平氏方では出羽城介(でわじょうのすけ)繁成や資盛の姥母板額御前(おばはんがくごぜん)が奮戦し、信濃武士でも藤沢清親、海野幸氏らが活躍した。建仁三年には信濃国目代(もくだい)で守護でもあった比企能員(ひきよしかず)が北条時政に討たれた。中野能成(よしなり)や島津忠久などが所領を没収された。建保(けんぽう)元年(一二一三)には小県郡の御家人泉親衡(いずみちかひら)の乱がおき、二代将軍頼家の子千手を奉じた謀反として多くの武士が連座した。信濃国住人青栗七郎の弟安念が白状したとして、善光寺平でも市村小次郎近村(芹田南・北市)、保科次郎(若穂保科)、粟沢(あわざわ)太郎父子(更埴市粟佐)らが逮捕された。これにつづいて鎌倉では和田義盛の乱がおき、鎌倉は大騒動となった。承久(じょうきゅう)三年(一二二一)の承久の乱では、保科次郎や島津氏、英多(あがた)荘の平林氏(松代町豊栄)らも活躍し西国に所領を獲得する。島津忠久も勲功として太田荘地頭職を獲得し、ここに信濃島津氏が活躍する基盤を獲得した。しかし、こうした政争のなかで、信濃の御家人はしだいに鎌倉での活躍の舞台はなくなり、その子孫は細々と存続するにすぎなくなったものが多い。

 建長二年(一二五〇)に幕府が京都閑院内裏(かんいんだいり)を造営したときには、全国の御家人二五三人が役を負担した。信濃ではこのとき一三人の御家人が参加したが、善光寺平では井上太郎と布施左衛門跡の二人が知られるにすぎない。井上氏は、文永二年(一二六五)井上正頼が信濃大掾(だいじょう)を名乗っており、後庁の在庁官人でもあった。建治元年(一二七五)幕府が御家人に課税した京都の六条八幡宮造営では、井上氏も「井上太郎跡」として三貫文を負担した。名跡(みょうせき)だけが継承され、幕府ではその当主の名前を掌握していなかった。

 若槻(わかつき)荘(若槻付近)の多古(たこ)郷(若槻田子)、押田郷(浅川)を中心とした地頭が、若槻下総(しもうさ)前司、同伊豆前司跡である。一〇貫文を負担する有力地頭であった。平治の乱で源義朝に仕えた頼隆と二男頼定が伊豆守を継承し、頼隆の嫡男頼胤(ちゃくなんよりたね)が下総守となった(『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』)。文治(ぶんじ)元年(一一八五)九月三日、頼朝が父義朝の遺骨を鎌倉勝長寿院に葬送したとき多くの御家人が供奉(ぐぶ)したが、郭(くるわ)内に召し具せられたものはわずか平賀義信・若槻頼隆・大内惟義(これよし)の三人にすぎなかった(『吾妻鏡』)。いずれも信濃源氏の三人が頼朝の信頼を獲得していたことがわかる。だが、若槻氏の鎌倉での活躍はこの頼隆の代のみで、以後は京方の御家人であった。幕府の正史である『吾妻鏡』にはそれ以後の活躍はまったく記録されていない。この一門が水内郡に居住し、若槻下総前司の頼胤は弘長年中に鎌倉に出て北条時頼に仕え、頼広・頼輔(よりすけ)とつづき、北条高時とともに鎌倉東勝寺で自刃したとの系図もあるが、真偽は不明である。

 四宮左衛門跡は五貫文を負担した。諏訪氏一門の出身で、院領荘園の四宮(しのみや)荘(篠ノ井塩崎)を名字の地とした御家人である。もともとは、国司が定めた一宮・二宮・三宮・四宮などの国内有力神社のひとつであったから、国衙(こくが)や後庁との結びつきの強い御家人であった。