鎌倉街道と善光寺

601 ~ 604

鎌倉幕府は官道に御家人や守護を通じて宿(しゅく)や馬などを配置し、鎌倉と地方を結ぶ街道を整備した。それらが鎌倉街道とよばれた。建久五年(一一九四)には東海道で旧来の宿とは別に新宿を整備し、大宿には八人分、小宿には二人分の早馬と疋夫(ひきふ)を設置した。関東においても鎌倉を中心とした上つ道・中つ道・下つ道(奥大道)の鎌倉街道を整備した。関東と善光寺を結ぶ街道はこの上つ道で、鎌倉から武蔵府中(東京都府中市・国分寺市)をへて入間川(いるまがわ)(埼玉県狭山市)・大蔵(同嵐山町)・児玉(同児玉町)・倉賀野(くらがの)(群馬県高崎市)・板鼻(いたはな)(同安中市)・松井田(同松井田町)から碓氷峠に入り、入山(いりやま)(北佐久郡軽井沢町)・桜井(佐久市)・望月(北佐久郡望月町)・布引(小諸市)・海野(小県郡東部町)・白鳥(同)・岩下(上田市)・落合(同)・塩尻(同)・赤池・坂木(坂城町)・柏崎・筑摩川・篠井・犀川をへて、信濃善光寺に通じる道が主要幹線となった。『宴曲抄(えんきょくしょう)』という中世歌謡集によみこまれた道で、千曲川東岸の街道となる。

 佐久からの道については、佐久伴野(ともの)荘桜井から望月牧に出て、依田荘(小県郡丸子町等)・塩田荘(上田市)・浦野荘(同)・小泉荘(同)・室賀峠(同)・村上御厨(みくりや)(坂城町)・小谷(おうな)八幡(更埴市)・四宮荘(篠ノ井)・石川荘(同)・小市渡し(安茂里)・窪寺(くぼでら)(同)・善光寺に通じる千曲川西岸の道も発達した。この西岸の鎌倉街道沿線には、北条氏一門の所領である郷村が分布しており、鎌倉後期にはこの道が主要幹線であった。

 この街道を通じて信濃の年貢が輸送され、御使らが往来した事例は多い。安貞(あんてい)元年(一二二七)信濃の知行(ちぎょう)国主藤原実宣(さねのり)から国務を請け負った藤原定家は、国情調査のため使者を京都・東海道・鎌倉・浅間山・善光寺後庁・京都というルートで派遣した。この時代信濃は東の鎌倉とのパイプ役を強め、関東との交通が活発に展開した。

 他方、北陸道を経由して越後国府から善光寺に通じる北まわりルートも利用されるようになった。文永八年(一二七一)時宗の開祖一遍(いっぺん)は、北陸から越後国府(上越市)をへて善光寺に参詣し、永仁(えいにん)六年(一二九八)二代目他阿真教(たあしんきょう)の善光寺参詣も同じ道と考えられる。信濃と越後の国境地帯には志久見(しくみ)関所(栄村志久見)・小穴川(こあながわ)関所(飯山市桑名川)が設置され、関料が徴収されていた。山道では北陸から信越・東北にかけては修験道(しゅげんどう)の道が発達し、「私の建立たるといえども北陸道の習(ならい)は山臥(やまぶし)通峰のとき便宜により宿に定めるは先例なり」といわれている。個人が建立した山寺が宿泊施設として利用され山伏や勧進聖(かんじんひじり)らが活動した。越後の関山(新潟県妙高高原町)、信濃の霊泉寺(りょうぜんじ)(信濃町)、飯綱・戸隠の顕光寺などの山岳寺院がそのまま宿所でもあった。

 川の道では千曲川の利用がある。室町時代の謡曲「柏崎」によると、柏崎殿の妻が柏崎をたち越後国府、常磐(ときわ)(常岩(とこいわ)牧・飯山市)から千曲川東岸の木島に出る。常岩の大蔵崎柏尾が中世の古い渡(わた)しであったから(『県史中世』①)、ここから木島郷(木島平村・飯山市)に出たのである。木島から浅野(豊野町)・井上(須坂市)をへて「山を東に見なして西に向かえば善光寺」とあり、井上から千曲川を渡って善光寺に向かっている。その細部のルートは二つ考えられる。ひとつは井上から布野の渡し(柳原布野)か村山の渡し(柳原村山)に出て、石渡戸(朝陽石渡)・和田(古牧西・東和田)・三輪・善光寺に出る。この道は、千曲川の渡しからまっすぐ西に向かう一直線の細い古道で「中道(なかみち)」と呼称され、三輪地区では「中道上下」の地名が残る。条里遺構の区割の上に整然と立地した古道で、西方浄土の西に向かって善光寺に参詣する東側からの参道であった。

 もうひとつは、明和六年(一七六九)に古来の善光寺往来として訴訟になった道がある。井上から千曲川を渡って土屋坊(どやぼう)(朝陽屋島)に出て長池(古牧南長池・朝陽北長池)・高田(古牧高田・南高田)・七瀬(芹田七瀬)から善光寺へ向かう参道である。長池から分岐して西尾張部(古牧西尾張部)・若宮(同若宮)・五分一(ごぶいち)(同高田)・中村(同)・北条(同)・鶴賀・権堂をへて善光寺にいたる古い道もあった。今も中村に古道に付属した井戸跡が残る。この井上の渡しは保科の渡し(若穂保科)とも隣接しており、往来の場として重要であった。戦国になって福島(ふくじま)宿(須坂市)が発達するのも、中世以来の井上渡しの機能を継承したためと考えられる。