宿と渡しの発達

604 ~ 608

鎌倉時代の善光寺平は、千曲川、犀川(西川)、裾花川などが乱流し、無数の中州や小島とともに自然堤防、後背湿地などが発達していた。正安(しょうあん)三年(一三〇一)に作成された『宴曲抄(えんきょくしょう)』にも「筑摩・篠井・西河さまざまの渡(わたし)を越過ぎ」とあり、千曲川・篠井・犀川の三つの大川の河川敷に無数の渡し場が形成されていた。「篠井」は河川名として記載されており、犀川のひとつの支流が用水路を示す「井」の名称でよばれていた。この篠井は、前述した中世の御幣(おんべ)川で、寛永の「松代封内図」にも記載されていた。

 正安元年に作成された『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』に描かれた犀川の渡しには、乱流する川岸に土留めの杭(くい)を無数に打ち、丸太を道に敷き堤の道がつくられ、一枚板をかけた板橋もみえる。馬に米俵をつけて、善光寺門前方面に輸送する駄馬と口付けの姿があり、周囲では中州を利用した牛や馬の放牧のようすや河原田の水田風景が描かれている。

 文治(ぶんじ)二年(一一八六)には、真島郷と川合郷が善光寺領になっていたから、ここに中世の道があり、犀川の渡しがあったことになる。現在の更北地区の地字表を調査すると、青木島町と真島町の二ヵ所に南北に走る縦地割が分布する(図11)。前者は、鴨(かも)河原・舞台・矢原・馬繋(うまつなぎ)・上街渠から・下河原・蛭窪(ひるくぼ)・葦苅(あしかり)・内堤とつづいて富部御厨(みくりや)(川中島町御厨)に出る。河原地名や湿地帯の浅瀬と思われる地名が多く、歩いて渡れた川中道と推定される。真島町には字「堀之内」「堀之内沖」の地名もあり居館跡もあった。後者はより東側に位置し、本道南沖・本道前沖・本道浦沖・鎌倉沖・不動寺・宿・往来下・梵天沖(ぼんてんおき)・梵天浦・四ツ橋西沖・小中島とつづく。道地名にそって、「宿(しゅく)」や「鎌倉」「往来」などの地名がみられるのは、この地が中世の宿泊施設でもあったことを物語っている。氾濫原(はんらんげん)のなかに古道が走っていたものとみてまちがいない。もちろん、これらの河川内の古道は洪水ごとに付けかえられたから、固定していた道があったはずはない。中州に不動寺・梵天などの寺社地名が多いのは、こうした中州を縫って走る古道に小規模な橋をかけたり補修する必要があり、そうした土木事業と橋料や津料の徴収を寺社がおこなったためである。『一遍上人絵伝』にも、時衆が道路工事や橋工事に従事している場面が描かれた事例がある。


図11 南北に走る縦地割

 氾濫や洪水などの自然災害とたたかいながら、湿地や自然堤防上を耕地として開発し、橋を設置したり浅瀬を利用した渡しを維持する努力が絶えず繰りかえされていた。慶長八年(一六〇三)の北国往還改修によって、市村の渡しで船頭一一人が八〇石の田地役を免除された。中世においても渡しの中心が市村郷であったとみてまちがいなかろう。だが、中世において川船がどれほど渡しに利用されたかは不明である。寛元二年(一二四四)市村景勝が裁判で敗訴し、過料(罰金)として橋の修理を幕府から命じられた。おそらく、『一遍聖絵』にある犀川の渡しのような小規模な板橋が数多く渡されており、洪水ごとに流されたからその維持費用の調達のため、罰則料がそれに当てられたのであろう。

 こうした河原・渡し場は、戦争の場ともなっていた。養和元年(一一八一)に木曾義仲は、「白鳥河原ヲ打出テ塩尻ザマヘ歩セ行テ見渡セハ横田・篠野井・石川サマニ火ヲ懸テ焼払」(『信史』③)という火攻めの戦略をとった。南北朝内乱でも「八幡河合戦ならび篠井・四宮河原合戦、毎度、千熊河(ちぐまがわ)を馳(はせ)渡る」といわれたり「福井河原において」(『信史』⑤)戦闘が展開されたりした。応永七年(一四〇〇)の大塔(おおとう)合戦でも陣を取った場所は、「篠井岡」「上島」「山王堂」「二柳」「千隈河(ちくまがわ)」に「石川」「塩崎」「横田郷」(『信史』⑦)であった。

 こうした渡し場には、中世でも宿泊施設が不可欠になる。若穂の保科には鎌倉時代に宿(しゅく)が形成され、そこに遊女(あそびめ)長者がいたという確かな史料がある。保科から上野国大笹(おおざさ)村(群馬県吾妻郡嬬恋(つまごい)村)をへて関東に向かう鎌倉街道は、善光寺と関東を結ぶ脇道として鎌倉時代の早い時期から利用されていた。文治三年(一一八七)当時保科宿の遊女長者が訴訟のため鎌倉に出向いていた。頼朝が鎌倉の三浦義澄邸で酒宴をひらいたとき、この遊女長者がよばれ宴曲を歌ったという(『信史』③)。

 この保科宿は、大笹道が千曲川・犀川・裾花川の合流点て接する位置にあり、川船を利用した渡川点であったため保科宿が発達した。中世の遊女は近世社会とちがって、川船をあやつる遊女が通例で、摂津国の江口(大阪市)や遠江国(とおとうみ)の池田宿(静岡市)などの遊女が著名であった。『法然上人絵伝』にも船とともに生活する遊女の姿が描かれている(写真41)。こうした河川の合流する河原や氾濫原に渡しや宿が形成されたのは、鎌倉時代の特徴である。小県郡海野の白鳥河原(東部町)にも白鳥宿ができ、その住人柏大夫入道阿弥陀仏と法阿弥陀仏が文永十一年(一二七四)地蔵菩薩を鋳造(ちゅうぞう)している(高崎市円性寺)。保科の清水寺(せいすいじ)も平安時代から存在した古寺である。この保科宿から船で裾花川を上流にさかのぼると善光寺の門前にいたる。逆に善光寺門前の「高畠」から川船にのって七瀬払や市村をへて犀川に合流し、さらに落合で千曲川に出て対岸の川田(若穂川田)から保科に渡る河川交通が利用されたのである。


写真40 保科宿跡
鎌倉時代千曲川・犀川・旧裾花川がこの付近で合流していた。 (若穂保科)


写真41 艪をあやつる艫取女を従えた遊女
(『法然上人絵伝』(角川書店)より)