地域社会の中心地であった鎌倉時代の善光寺門前はどのようになっていたのであろうか。仏教の教えがおよばない末法の世界に入ったという思想が流布するとともに、阿弥陀如来の本願によって西方浄土の世界に生まれ変わるという阿弥陀信仰が浸透した。善光寺如来は日本最古、三国伝来の生身如来(しょうじんにょらい)だという善光寺信仰が急速に全国に広まった。善光寺如来を模造して各地に善光寺を勧進する聖(ひじり)たちが増加し、老少男女区別なく庶民層にまでその信仰が拡大した。善光寺は治承(じしょう)三年(一一七九)に焼失し、文治(ぶんじ)三年(一一八七)将軍頼朝によって再建工事が命じられた東大寺と同じ運命をたどった。信濃国の目代比企能員(ひきよしかず)と勧進上人によって国内の地頭御家人をはじめ荘園・公領の人びとが動員され、四年間の歳月をかけて完成した(『信史』③)というから、いかに大規模なものであったかがうかがわれる。鎌倉時代、善光寺はたびたびの火災にあって再建工事が繰りかえされたが、その場所と規模は、正安(しょうあん)元年(一二九九)に作成された『一遍聖絵』や『一遍上人絵伝』などからうかがい知ることができる。
善光寺への参道は南から北に一直線に伸びていた。ほぼ市村の渡しから現在の長野駅をへて善光寺まで、南北に細長い縦地割りがつづいている。石堂東裏・新田裏・新田町並・後町裏・後町町並・町屋敷・裏屋敷という字名の地割りは、南北に細長い地割りとなって道路状に大門までつづいている。周辺が東西に長い横地割りなのと好対照である(図12)。これが中世の参道であった。この参道を斜めに東西に横切って裾花川が流れていた。現在県庁がある字「幅下(はばした)」という地名は浸食崖(しんしょくがい)をさすが、そこは裾花川の分水口でもあり、字「西河原」・「高畑」・「下河原」・「沢田」・「河原」・「前河原」などの地名がその旧川道跡であったことを示している。現在は南八幡川が流れている。応永七年(一四〇〇)当時、「善光寺の南大門および裾花川の高畠に履子(くつ)を打つ所なし」(『大塔物語』)と記され、この字「高畑」が中世以来の地名であり、ここを裾花川が流れていたことを示している(『県史通史』②)。
この裾花川に欄干(らんかん)をもった大橋が架けられており、そこを渡ると木戸と柵(さく)が設けられていて武士といえども下馬することになっていた(写真42)。「後町町裏」「十念寺裏」「町屋敷」の地名のある一帯に相当する位置であり、中世の後庁とその町があった場所である。後庁は在庁官人が政務をとった機関でもあったし、そのための道々(みちみち)の細工(さいく)(職人)らをかかえた町が形成されていたのである。その場の象徴が木戸であった。『一遍聖絵』では、鎌倉の小袋坂にも町の入り口に木戸が描かれ、善光寺門前と同じ構造であったことがわかる。
善光寺の南大門は、現在の大門町字「大門」の地にあり、付近を鐘鋳(かない)川が流れていた。この裾花川と鐘鋳川の二つの川にはさまれた場所が、善光寺門前であり後庁であった。定期市がたち、善光寺如来と仏縁を結ぶことのできる境界の場で、だれもが自由に往来できる都市的な場所であった。
南大門は両側に築地塀(ついじべい)が立ち、中門まで参道がつづき、その両側には町屋敷がつづいていた。ここも一般庶民の活動域であり、地名でも字「東町」「西町」とあり、中世の善光寺では南大門を入った境内もオープンであった。中門の周囲は回廊が四方をめぐり、如来堂(にょらいどう)や大坊があった(写真43)。現在の仲見世・宿坊のある場所で、地蔵菩薩像のある場所付近が中世の本堂と考えられる。この回廊の東西の外側に西門・東門が描かれている。現在も地名として残っている(図13)。
平成八年(一九九六)から九年にかけて、この字大門地籍で道路工事にともなう発掘調査が実施された。その結果、三七〇点をこえる中世石塔や宋銭・明銭二〇〇枚、地下蔵を想定させる礎石や石列、火葬骨、建物跡などが出土した(写真44)。「応安二年(一三六九)」「永徳三年(一三八三)」「応永三十一年(一四二四)八月二十六日 高阿弥陀仏」「明応八年(一四九九)八月十三日□阿」などの銘文をもった墓石が多く、南北朝期から戦国時代のものが中心であった(写真45)。中世の善光寺では、南大門を入った境内にまで町屋や商業地域が拡大していたことがほぼ確認された。
『一遍聖絵』には北門を出ると、旧湯福川の橋が描かれている。現在の駒返(こまがえり)橋と伝承されている場所である。ここには寺庵(じあん)と思われる建物が描かれている。周囲を柴垣根で囲み、入り口には門(かど)木が立てられ、注連縄(しめなわ)が張られ、魔除けの板が吊(つ)られている。板葺(いたぶき)屋根と漆喰(しっくい)壁をもった門口が横二間縦三間の副家(そえや)がある。母屋(おもや)は萱葺(かやぶき)の屋根と庇(ひさし)を付け、蔀戸(しとみど)と障子戸がはまっている(写真46)。町屋・在家とは異なる建築技術が駆使されていた。この周辺には山野が描かれ、現在の横山付近に相当することがわかる。