鎌倉時代の善光寺仏師

614 ~ 615

『一遍聖絵』によると、鎌倉時代の善光寺門前には、多くの職人や雑芸人たちが集まっていたようすがわかる。

 門前では高貴な尼僧(にそう)を案内しようとする裸足(はだし)のこどもが描かれている(写真47)。寺の門前には捨て子が多く、幕府もたびたび禁令を出していたほどである。善光寺周辺ではそうした捨て子が人びとの布施や喜捨によって寺子として成長して活動する世界があった。西門付近では、大傘に巻き物を紐(ひも)で結びつけ柿色の衣を着た絵解き法師の二人組が描かれている(写真48)。こうした巻き物は善光寺縁起絵が多く、大道で参詣人を前に縁起絵を広げ語り聞かせて布施をもらう大道芸人でもあった。現在こうした善光寺縁起絵は、鎌倉時代から南北朝時代のものが五点重要文化財に指定されて残っている。


写真47 善光寺門前で道案内するこども (『一遍聖絵』)


写真48 善光寺の外を歩く絵解きの僧 (『一遍聖絵』)

 北門を出た寺庵付近には、こどもに手を引かれた琵琶(びわ)法師が描かれている(写真46)。『平家物語』は信濃前司が琵琶法師に語らせたもので平曲といわれたように、琵琶法師は諸行無常や善光寺信仰を流布する民間布教者でもあった。善光寺はその拠点であった。

 善光寺では多くの建造物や仏像・経典・仏具類などの造営・修理が必要であったから、多くの職人を必要とした。門前には多くの仏師(ぶっし)がいたが、そのひとり妙海(みょうかい)は「仏師善光寺住侶(じゅうりょ)僧妙海」(『信史』⑤)とか「仏師善光寺住妙海」(同)と名乗り、県内に九体の仏像を残した。つぎのとおりである。

文保(ぶんぽう)元年(一三一七) 月光菩薩像・日光菩薩像 二体 三四歳 県宝 光久寺

元亨(げんこう)二年(一三二二) 金剛力士阿形(あぎょう)像・吽形(うんぎょう)像 二   若沢寺(にゃくたくじ)

元亨三年(一三二三) 十一面観音像      一体 三九歳 重文 上島観音堂

 同         月光菩薩像・日光菩薩像 二      県宝 光輪寺

元徳四年(一三三二) 月光菩薩像・日光菩薩像 二      重文 福満寺

 暦応(りゃくおう)三年(一三四〇)には、「絵師 善光寺」と記した参河法眼慶暹(みかわほうがんけいせん)が北佐久郡望月町福王寺の阿弥陀如来座像の修理彩色をおこなっている(『信史』⑤)。仏師や絵仏師らの職人が善光寺に定住して、地方各地の仏像の注文生産に応じていたのである。この善光寺仏師は、江戸時代にも存続し、長谷川らが芋井地区の仏像を製作し、明治までつづいた。

 貞治(じょうじ)四年(一三六五)に「善光寺西門」には正一坊なる山伏の存在が史料上確認され(『信史』補)、応永七年(一四〇〇)には「桜小路に玉菊・花寿と云(い)う遊女」がいた(『信史』⑦)。西門・桜小路などという地割りが中世にも存在しており、山伏や遊女らが活躍していた。享禄(きょうろく)四年(一五三一)に善光寺鐘楼など諸堂の差図(さしず)を作成したのは、「如来大工」を名乗る近江守であったが、かれらも早くから門前にいた善光寺の宮大工であった。鎌倉時代に善光寺地頭になることを申請して認められた長沼宗政も、「如来地頭」と主張していた(『信史』③)。中世では、こうした地頭や大工・仏師・職人などは善光寺如来に直接結縁(けちえん)したものという特別な意識をもっていた。天文十六年(一五四七)にはこの桜小路に「大工せんさえもん」の父子や兄弟の存在が確認され、かれらが葛山(かつらやま)落合神社の社殿を造営していた(『信史』⑪)。こうした職人の活躍は、鎌倉時代から戦国時代まで一貫してみられたのである。