鎌倉後期、蒙古の来襲にそなえて外交・国防問題が騒然とするころ、国内でも悪党といわれる反権力的な行動をとる勢力が増大し大きな社会問題になりつつあった。文永(ぶんえい)年間(一二六四~七五)に、善光寺でも別当の派遣した寺務職に反抗したり、京都への年貢を未納し本所の指示にしたがわず種々の非法や不正をおこなう人びとが出てきた。こうした人びとが寺辺悪党とよばれた。善光寺地頭にかわって、この悪党を鎮圧し寺を警固するため善光寺奉行人(ぶぎょうにん)が設置された。補任(ぶにん)された御家人らは『吾妻鏡』に記載されている。和田石見(いわみ)入道仏阿、原宮内(くない)左衛門入道西蓮(さいれん)、窪寺(くぼでら)左衛門入道光阿、諏訪部四郎左衛門入道定心の四人である。その正確な年代は不明であるが、ただ一二四〇年代にはこれらの人物が活躍していたから、一三世紀半ばには四人の奉行人の合議制によって善光寺の寺辺や門前の治安維持がはかられたらしい。
窪寺左衛門入道光阿は、窪寺(安茂里)の月林(がつりん)寺にいた複数の地頭の一人で、窪寺氏の惣領(そうりょう)の家筋にあたる人物である。建治(けんじ)元年(一二七五)にも「窪寺入道跡」として幕府に登録された信濃国御家人で、嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)当時も「新左衛門尉(じょう)」を名乗る窪寺氏が一族を代表して諏訪社頭役(とうやく)をつとめていた。月林寺は、延暦寺の荘園となっていた。犀川の渡川地点である小市郷薗(その)(安茂里)には日輪(にちりん)寺があり、窪寺の月輪(がつりん)寺と対になって天台山領であった(『市誌研究ながの』一号)。現在も「大門」「中御堂沖」「観音前」「矢下」などの地名が残り、大規模な伽藍(がらん)があったことがわかる。山麓(さんろく)中腹を走る横道があり、「中道」「本道」「大門坂」などの道地名が残る。この横道を通っていくと善光寺に通じる。窪寺は小市の渡しから善光寺・戸隠にいたる参道に位置している。
窪寺氏の居館跡は、山麓中腹の「殿屋敷」にあったと伝承され、東北に諏訪社、西北に菩提寺といわれる西運寺がある。この付近は「城(じょう)」とよばれ、背後の裏山は城山で郭(くるわ)跡や空堀(からぼり)が残り、室町時代の城郭跡と推定される。鎌倉時代の居館跡がどこにあったかはまったく不明である。ただ、「矢下」「宮裏」「竹ノ裏」一帯には方形地割りの計画水田がかつて分布していたことが、大正十五年(一九二六)の測図からわかる。奥の深い大金山沢の用水を横堰(せぎ)で引き、寺沢の沢水と合流させて大堰にしていた(図1)。中世では裾花川は東流しており、取水することはできなかったから、大金山沢の沢水を利用した部分的な開発がこの窪寺郷の生産基盤であったと考えられる。御手洗沢と横堰の流末が合流したあたりの段丘上が、鎌倉時代の窪寺氏の居館であった可能性が高い。
諏訪部四郎左衛門入道定心は、もと小県郡諏訪部(上田市諏訪部)出身の御家人で、小泉荘(上田市小泉付近)の泉氏と同族であった(『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』)。建治元年には「諏訪部入道跡」として幕府に登録され、嘉暦四年当時は「諏方部四郎左衛門跡」として後庁郷の地頭であった。後庁の地は『明月記』の安貞(あんてい)元年(一二二七)に「善光寺近辺を後庁と号す、眼代(がんだい)等の居所なり」とあり、信濃国司の目代(もくだい)や在庁官人らが勤務する政務の中心地であった。妻科神社の前で鐘鋳(かない)川から分水する中沢川は後庁郷のなかを流れるが、人的な開削(かいさく)で小規模な用水路のため、地割りを規制したようなようすはない。北八幡川は規模が大きく後庁郷の南境となっている。この北八幡川と鐘鋳川のあいだの地域を「後町」といい、その東側に古名を「豊御所(とよごしょ)」といった「問御所」の地名が残る。応永十年(一四〇三)の板碑(いたび)をもつ時宗の十念寺が「後町」にある。旧保健所のあった「豊御所」付近は周囲より一メートルほど高くなっており、居館跡であったことがわかる。諏訪部氏の屋敷もこの付近に想定される。現在でも市内に諏訪部姓が残っている。中沢川・北八幡川はこの善光寺門前の地割りをすぎると、いずれも条里的地割りの上に整然とのったまま東に流れ、北条・中村地区にいたる(図2)。
和田石見入道仏阿は、東条荘の領家職(しき)を相伝した平姓和田氏の一族である。建治元年当時は、和田肥前入道が惣領(そうりょう)として幕府に登録され、四人の奉行人のなかではもっとも有力な信濃国御家人であった。鎌倉末期には一族が東条荘狩田(かりた)郷(小布施町)を中心とした隠岐(おき)入道の一族と、和田郷(古牧西和田・東和田)を中心とした三河入道一族、長池郷(古牧南長池・朝陽北長池)にいた石見入道一族らの三つの家に分かれており、同族であるがゆえに互いに利害が対立していた。
この和田氏一族は繁の字を通字にしており、和田繁雅が貞応(じょうおう)二年(一二二三)後高倉院の上北面の侍であり、院の葬儀に参列している(『後高倉院葬礼記』)。かれは寛喜二年(一二三〇)二月八日に死去したが「女院御後見」といわれ、かれの妻は「女院御乳人(めのと)」であった。後高倉上皇の皇后北白河院か、その娘安嘉門院(あんかもんいん)の後見人であった。子の信繁は安貞元年(一二二七)三月三十日に北白河院の強い推薦によって細工所奉行を命じられ、寛喜二年閏(うるう)正月十日には女院御使として関東に下向している(『明月記』)。繁雅・信繁の父子については「三浦和田中条家文書」に伝わる「桓武平氏諸流系図」には安嘉門院御使をつとめたと記載され、和田肥前守繁継は宣陽門院(せんようもんいん)長や殷富(いぶ)門院蔵人(くろうど)をつとめ、石見守繁氏は北白川院蔵人であったと伝えている。系図と古記録とがほぼ一致する。平姓和田氏一門は幕府御家人ではありながら、後高倉院・四条院・宣陽門院・殷富門院・北白河院・安嘉門院など歴代の院や女院に仕える諸大夫(しょだいぶ)で、公家政権と密接な関係があった京方御家人でもあった。
一門の和田繁有は、仁治(にんじ)三年(一二四二)に四条院の北面の侍で、「平左衛門大夫」として葬礼の御幸に参加している(『四条院御葬礼記』)。かれは諏訪社の流鏑馬(やぶさめ)頭役にあたったとき、名馬の借用を石見入道に申し入れて断わられたと記されている和田隠岐前司繁有である。
善光寺奉行人の和田石見入道は「高岡」というところに屋敷をかまえており、『とはずがたり』の作者で後深草(ごふかくさ)院女房の二条を善光寺参詣に呼びよせ、自分の屋敷に宿泊させた。一門が後高倉院・北白河院・安嘉門院という宮中に仕える京方武士であるとともに、幕府の御家人であり善光寺奉行人であったからこそ、後深草院の女房を善光寺に呼びよせえたのである。この高岡という地名は現在残っておらず、その位置は不明である。室町時代に高梨氏の所領に「和田郷并(ならびに)高岡」とあるから和田郷付近にあったものと推測される。
西和田の現信毎書籍印刷株式会社付近は、「城前南」「城前東」の地名や「城堀堰」とよぶ用水があり居館跡があった。しかし、この付近は条里地割りがみられない後代の開発地帯と考えられる。西和田和田公園北の現公務員宿舎付近には、字「大道北」「大道南」の地名と「ごちょう」「たかみ」という呼称地名が伝えられ、周囲が水田地帯なのにその部分のみが方形の微高地で畑であった。昭和四十年代までは、畑として耕作されていた。この地も居館跡と推定される。この一帯はもっとも条里水田が典型的に分布していた。ここに接して「中道」という古道が通じており、西に向かうと一直線で善光寺の東之門町にいたり、東に向かうと青木地蔵尊(赤地蔵)の前から東和田館跡に通じていた。この赤地蔵は旅人の安全祈願のご利益があるといい、地蔵盆の民俗慣行が残っていた(『善光寺平のまつりと講』)。この東和田館跡は、現在運動公園となり痕跡(こんせき)はないが、地籍図から居館跡であったことがはっきりしており(図3)、ほぼ一〇〇メートル四方規模の台形居館跡と内郭があった。ここに高岡の石見入道屋敷をあてる説もある。後述するように室町時代には高梨氏の所領になるので改修されたものである。この西和田・東和田地区は道路・用水路・町割りそのものが、きれいな条里的地割りの上にのっていることがわかる(図5)。
四人目の奉行人である原宮内左衛門入道西蓮は、嘉暦四年に長池郷一方地頭の和田氏の「付(つけたり)」の寄子(よりこ)として諏訪頭役を勤めた原宗三郎入道の縁者である(守矢文書)。室町時代に平林郷(古牧平林)に原大和入道沙弥(さみ)有源、小鹿野(おしかの)(三輪・吉田押鐘)に原入道沙弥善胡・原加賀守真高(しんこう)、宇岐(うき)(三輪宇木)に原国宗らがいたことが知られる(『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』)。この小鹿野・宇岐などは、鎌倉時代には小井(こい)(越)郷にふくまれていたと考えられるから、この原氏も平林から小井郷にかけて所領をもっていた御家人と考えられる。この原氏城跡が平林に残っていた。この居館跡は南北一〇五メートル、東西一五〇メートルほどで土塁が回り、周囲の用水路もすべて条里的地割りにのっている(図4)。
こうしてみると、鎌倉後期に善光寺奉行人となった御家人はすべて地元の御家人である。しかも、西や南から善光寺に入るには、小市の渡しから横道を通って窪寺を通過せざるをえない。北や東から善光寺に入るには、井上(須坂市井上)・布野(柳原布野)の渡しから中道を通って和田郷や平林郷などを通らざるをえない。窪寺・諏訪部・和田・原らは、幕府の正史である『吾妻鏡』にはほとんど姿をみせず、将軍の出御に供奉(ぐぶ)したり御所の諸番役を勤めたりすることもなかった。和田氏は京方と関係の深い御家人であった。それだけに、幕政の中枢(ちゅうすう)を掌握する北条氏が、善光寺への統制を強化しようとすれば、これら地元御家人の合議制による善光寺の治安体制はなにかと不都合になっていた。