善光寺奉行人の停止

625 ~ 626

文永(ぶんえい)二年(一二六五)十一月二十日、幕府は評定(ひょうじょう)を開き善光寺奉行人を廃止し、その旨を信濃守護人北条義宗に伝え執行させた。この幕府の決定は奉行人らか「員外の雑務を相交へ、不調の沙汰(さた)を致す」という訴訟が引きおこされたため、この日の決定になったという。四人の奉行人らか権限外の雑務に介入して行政事務が滞(とどこお)ったというのである。しかし、この訴訟がだれによって提起されたものか『吾妻鏡』は記録していない。おそらく善光寺の本所三井寺(みいでら)(園城寺(おんじょうじ))が幕府に提訴したのであろう。信濃守護北条義宗はさきの守護北条重時の孫である。善光寺奉行人の停止を公布し、門前や後庁の行政改革に着手した。当然、善光寺や後庁での守護義宗の発言権が強化された。

 文永八年(一二七一)一遍がはじめて善光寺に参詣した年、焼失した本堂の再建が実現し落慶法要がおこなわれた。園城寺の長吏で、鎌倉の鶴岡八幡宮別当となり北条時宗の信任あつい隆弁(りゅうべん)僧正が善光寺を訪れ、この法要の導師をつとめている。この隆弁の兄四条隆衡(たかひら)は建保(けんぽう)元年(一二一三)信濃の知行(ちぎょう)国主であったし、その後、二番目の兄隆仲も信濃の国務で、承久(じょうきゅう)の乱のあとに辞職している。かれの兄弟は信濃国務との結びつきが強く、後庁の在庁らのなかには知己の関係者もいたのであろう。かれは北条時頼によばれて鎌倉に下向し、時宗や宗政を出産するさい安産のための祈禱をおこなっており、時頼死去では、得宗(とくそう)被官の諏訪蓮仏(れんぶつ)とともに仏事に参加していた。隆弁は善光寺の本所園城寺の長吏であったから、その点からの寺院内部の反発は少なかった。こうして守護義宗と僧隆弁を介して北条氏一門の勢力がしだいに善光寺にも浸透していった。

 義宗の行政手腕も評価されたのであろう。順調に出世し建治(けんじ)三年(一二七七)六月には幕府評定衆に加えられている。この年の五月、重時の子義政は執権時宗の諫止(かんし)を振りきって出家・遁世(とんせ)し、善光寺に参詣の途中塩田荘(上田市塩田)に籠居(ろうきょ)するという事件を起こした。その原因や背景は今なお不明である。信濃守護義宗は、義政にかわって幕政に深く関与するようになる。北条氏による善光寺や北信濃への監視強化がすすんだのである。