鎌倉後期になると、幕府権力を独占した北条氏一門、とりわけ一門の惣領(そうりょう)である得宗家が勢力を伸長させた。御家人でありながら、得宗被官である御内人になるものが増加した。信濃の守護は北条重時の子孫が世襲して得宗家と協調し、諏訪社大祝(おおほうり)の一門諏訪金刺(かなさし)氏が鎌倉に屋敷をかまえ得宗被官となり実力を発揮した。信濃国御家人のなかから得宗被官になるものも多かった。高井郡中野牧(中野市)の尾藤太中野三郎景信、佐久郡の宿屋氏、水内郡の千田氏なども北条氏の得宗被官となった。
善光寺平周辺でも、地元御家人の所領はしだいに北条氏一門の所領にかわっていった。北信濃の大規模な荘園であった太田荘(おおたのしょう)では島津氏一門が郷地頭であったが、そのうち石村(豊野町石)、大蔵(同大倉)の両郷地頭職(しき)が北条越後守実時の手に入り、文永十二年(一二七五)四月には藤原氏女(むすめ)に譲与(じょうよ)された。実時がいつこの両郷の地頭職を入手したのか不明であるが、鎌倉での政変のなかで入手したものと考えられる。更級郡船山郷(戸倉町・更埴市)も、嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)当時には守護北条基時の所領となっていた。この船山郷には寛元二年(一二四四)当時、甲斐国御家人市河掃部助(かもんのすけ)高光の所領があり、鎌倉末期に一分地頭として諏訪時光が知行地を獲得していた(『信史』⑥)。南北朝時代には守護所がおかれたところで、奥春近(おくはるちか)領のひとつであった。千曲川の河川交通と、更級・埴科と小県を結ぶ室賀峠や筑摩郡に向かう一本松峠などの陸路とを結ぶ交通の要衝であった。鎌倉末期には、こうした重要地点に北条氏と得宗被官の諏訪氏がセットで所領を獲得していた。
千曲川を渡る津のあった更級郡四宮荘(篠ノ井塩崎四宮)は、永仁(えいにん)六年(一二九八)に後伏見天皇の勅裁によって京都の仁和寺(にんなじ)北院領から高山寺(こうざんじ)領になり、延慶(えんきょう)三年(一三一○)六月にも高山寺領として再確認されている。この荘園では建治(けんじ)元年(一二七五)当時から四宮左衛門跡の一族が信濃国御家人として地元に存続していたが、鎌倉での活動はほとんど知られていない。鎌倉末期にはこの四宮荘北条が円明(北条時顕(ときあき))の所領となった。幕府の奉行人である諏訪大進円忠(えんちゅう)や神三郎盛宗跡・諏訪松犬丸(康嗣)・女尼性円(あましょうえん)・二女横田女子などの所領も確認できるから(『信史』⑤)、これら諏訪氏の所領も鎌倉末期にまでさかのぼるものといえよう。北条時顕は武蔵国麻生郡にも所領があった(比志島文書『信史』⑤)から、北信濃にまで所領を拡大し四宮荘に進出したことになる。こうなると、鎌倉当初から地元の御家人であった四宮左衛門尉の一族は、新たに入部してきた北条氏やその被官諏訪氏に忠勤を励まざるをえない立場になった。建武一統を打破する中先代(なかせんだい)の乱では、四宮左衛門太郎は、北条時行方の大将として船山郷青沼の守護館を攻撃している(『信史』⑤)。四宮氏も北条氏の被官になっていたのである。
諏訪氏が得宗被官として鎌倉で権勢を誇るようになると諏訪氏(神氏)と姻戚(いんせき)関係を結び、神氏の一門に連なろうとする御家人らか出てきた。高井郡笠原氏は平氏出身で笠原平頼直の子孫であるが、文永八年には笠原信親が惣領職を主張して北条実時に所領をめぐる証文目録を提出した。かれは神信親と称し得宗被官諏訪氏の一門であることを強調することで、北条氏から都合のよい裁許を得ようとした。
今溝荘の今溝入道(『善光寺縁起』)の一門沙弥重阿(しゃみちょうあ)は、今溝荘北条(古牧北条)に相伝私領をもっていた。かれは長知(ながとも)・親知(ちかとも)の二人の子息と娘の神氏をもっていたが、長知が父に先立って死去したため、北条の所領を伊那郡大萱(おおがや)(伊那市)の地頭大萱小太郎入道の後家尼になっていた娘に相続した。後家尼一期(いちご)のあとは、子息の親知を一門の惣領として当郷を返却するように譲状(ゆずりじょう)を作成して、元徳(げんとく)元年(一三二九)十二月十日に執権北条守時の承認を得、安堵(あんど)の外題(げだい)をうけている(『信史』⑤)。娘が「女神氏」とあるから今溝入道は神氏を名乗っていた。更級郡更級郷の地頭は、三人の娘を水内郡今溝の地頭、更級郡長谷(篠ノ井塩崎)の地頭、筑摩郡熊井(塩尻市)の地頭に嫁がせていたという史料がある(『沙石抄(しゃせきしょう)』)。この今溝地頭と更級郷地頭とは姻戚関係にあった。更級郷には南朝の宗良(むねよし)親王が一時居住したことが確認され(『季花集』)、親王は諏訪一族の神党(じん(みわ)とう)と結んでいたことから、更級郷の地頭も神氏であった可能性が強い。神氏との姻戚関係をもとうとする動きが、鎌倉末期に善光寺周辺の中小御家人らのなかにも広がっていたのである。
この今溝荘北条の地は荒屋(古牧荒屋)の南に位置する。荒屋地区は善光寺の丘陵から流れでる湯福川や畔下堰の流末、堀切沢の流末が条里地割りを斜めに横切って流れこむ一帯である。古代中世には洪水・押し出しの災害地帯であったことが地名からわかる。湯福川・畔下堰などの用水はいずれも堀切沢の松林幹線が集水し、北条地籍では三メートルほどの深い川となっている。しかも、北条地籍では条里的地割りに沿ってきれいに流れ下り、地蔵堂付近ではほぼ三〇〇メートルの方形区割りをつくる。その内部は水田であるが、ほぼ一〇〇メートルほどの台形居館跡が畑地になっていた(図5)。大正十五年(一九二六)測量図は、この一帯がきわめて見事な条里的地割りを残していたことを記録している。この台形居館跡こそ鎌倉時代の今溝の地頭屋敷ではないかと考えられる。
この居館跡周辺の用水は、松林幹線が深い悪水払いの排水路であるから灌漑(かんがい)には使えない。このため、北条地区の用水は善光寺門前からの払堰の用水を条里地割に沿って集水し、少ない水を有効利用している。これらの堰をすべて中沢堰とよんでいる。鐘鋳(かない)川から取水した中沢川はきわめて小規模なもので、流量はわずかで、むしろ途中の悪水払いの用水を集めて再利用する用水路である(図2)。今溝荘南条は、地名としても残っていないが、この中沢川を利用した一帯であろう。今溝とは中沢堰や中沢川をさすもので、一二世紀に京都松尾社の投資もあって人工開削(かいさく)されたものであった。鐘鋳川の開削のあとになってつくられた中沢川は、払い堰の性格をもっていたといえる。
北条に隣接する平林郷は、御家人原氏が善光寺奉行人を解任されたあと、北条氏の所領となったらしい。『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』に「西明寺(さいみょうじ)殿御廟所(ごびょうしょ)」とあり、最明寺入道時頼の位牌所(いはいじょ)との伝承が室町時代に存在していた。鎌倉末期には北条時頼の知行地か北条氏の所領となった可能性が高い。
諏訪氏の勢力が全盛になる鎌倉末期には、明らかな源氏であった一族も神氏を称するようになる。甲斐源氏出身の市河氏も、鎌倉末期には「神経助(つねすけ)」「神助房(すけふさ)」を称している。源氏の保科氏も「神氏系図」では神氏を称しており、保科弥三郎も北条時行方の大将として船山郷青沼の守護館を攻撃している(『信史』⑤)。保科氏も北条氏の被官になっていた。北条得宗家の御内人として諏訪氏が発展し、諏訪社の神威も高揚したこともあって、中小御家人の多くは、諏訪氏との血縁関係を主張して神氏を名乗るものが増加したのである。