得宗被官の進出

631 ~ 635

信濃は北条氏にとって相模(さがみ)・武蔵につぐ拠点であったから、得宗(とくそう)被官を所領支配のために派遣することが多かった。北条氏の所領となっていた伊那春近領では、政所(まんどころ)として池上氏を派遣し、地頭代には工藤氏らを任命していた。埴科郡坂木郷(坂城町)や佐久伴野(ともの)荘(佐久市)などでは一分地頭に薩摩氏が任じられていた。いずれも得宗被官である。善光寺平では、鎌倉後期になってからこうした事例が顕著になる。

 小井(こい)郷(吉田中越・太田付近)では、得宗被官片穂惟秀(かたほこれひで)の後家が所領をもっていた。この片穂氏は常陸(ひたち)国筑波(つくば)郡南条方穂(かたほ)荘(茨城県つくば市)を本貫(ほんがん)とする御家人であったが、建長二年(一二五〇)当時片穂刑部(ぎょうぶ)四郎が北条泰時の被官となって台頭した。正応(しょうおう)五年(一二九二)片穂惟秀は中務丞(なかつかさのじょう)の官職をもち、駿河国有度(うと)郡鎌田郷(静岡県清水市)、陸奥国名取郡平岡郷(宮城県仙台市)などの所領をもっていた有力な御内人であった(斎藤文書、鎌一七八五六)。かれは所領を後家分として妻に譲与した。この妻は、出家してから「尼とうしょう」と号した。彼女が水内郡越(こい)郷(小井郷)に重代相伝の田一町と平入道跡と在家一宇の地頭職をもっていた。つまり、この小井郷の所領は彼女の実家から相伝されたもので、平入道跡の地頭職がふくまれているから実家は平氏であった可能性が高い。平氏を称する得宗被官では、平盛綱や平頼綱が著名である。

 嘉元(かげん)三年(一三〇五)正月、彼女は夫から譲与された後家分を、娘のなかで「御内(みうち)奉公」をし、しかも母の心にしたがうことを理由に有王御前に譲与した(遠野南部文書、鎌二二〇八八)。正和(しょうわ)二年(一三一三)六月三日には、信濃の重代相伝の越郷の所領を孫曾我(そが)左衛門太郎光頼の子息犬太郎(資光)に譲与した。もしこの状に違背した輩(やから)が出た場合は「かみ(上)に申して」当郷を一円に知行すべきことを命じている。ここで「御内奉公」といい「かみ」といって頼りにしている存在こそ、北条得宗家の貞時・高時であった。この間、徳治(とくじ)二年(一三〇七)五月、大守(たいしゅ)貞時が父のために毎月四日に円覚寺大斎(たいさい)をおこなうために結番(けちばん)を定めたとき、諏訪氏一門とともに曾我次郎左衛門尉も加えられている。曾我氏も得宗被官となっていた。曾我氏と片穂氏とは「尼とうしょう」を介して姻戚関係にあった。

 嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)の諏訪頭役結番帳によれば、小井郷内には諏訪木内左衛門尉入道知行分も存在していた。この諏訪木内左衛門尉入道は、北条高時一門の滅亡のさいに、子息亀寿丸(時行)を奉じて諏訪に逃れた諏訪三郎盛高の父で諏訪真性その人であるとの史料もある(「神明鏡」『信史』⑤)。貞時・高時に仕えた代表的な御内人諏訪氏も、小井郷に所領を獲得していた。

 こうしてみれば、越(小井)郷内には、平氏・曾我氏・片穂氏・諏訪氏といういずれも北条氏の得宗被官となった勢力が進出し、所領を錯綜(さくそう)させていたことがわかる。この故地は吉田の中越と考えられ、鐘鋳(かない)川の流域に位置する。中古衣神社や中越集落がやはり条里的地割りに規制されていることがわかる。その北方に信越線によって斜めに横断されたが、道路と用水路で囲まれた約一〇〇メートル四方規模の台形居館跡が復元できる(図6)。湧水と寺院が残っている。だれの居館に相当するかは不明であるが、地割りが条里的地割りに規制されているから、鎌倉時代後期のものとみてまちがいない。

 この屋敷跡は室町時代に再利用され、内郭がつくられほぼ五〇メートル四方弱の居館跡となっている。この内郭を地元では昭和四十年代までは「内堀の家」とよんでおり、文明年間(一四六九~八七)上総(かずさ)(千葉県)から和田に移り村上氏に属し、天文年間(一五三二~五五)中越に来住したと伝承していた。史実かどうかの裏づけは困難であるが、鎌倉時代の屋敷跡を室町時代になって再利用したとき、内堀を築き規模を小さくして防御性を高めたものと考えられる(図6)。


図6 中越居館跡
居館跡が50メートル規模に改修されたことがわかる。(浅野井垣作図)

 元徳(げんとく)元年(一三二九)に「宇木・小居・平林」の三郷が諏訪社遷宮のさいに玉垣を負担した。小井郷と平林郷にならんで宇木郷が鎌倉後期に成立していた。下宇木には相ノ木氏館跡、上宇木には宇木古城跡と宇木内堀跡が存在していた。これら居館跡の用水は、浅川で取水した三郎堰の用水を引きこみ堀に貯水したあと灌漑(かんがい)に利用して宇木沢に排水し、平林の灌漑用水に活用している。平林郷は鐘鋳川の用水だけでは不足するから、浅川からの取水や宇木付近の湧水を集めた宇木沢の用水も利用しており、両郷は用水体系を共通にする側面があった(図2)。これらの居館跡のなかには、鎌倉時代後期にすでに形成されていたものを再利用したものがあったにちがいない。

 北条氏や得宗被官の進出という事例は東条荘内でも指摘できる。この荘園は平姓和田氏が領主職をもっていた荘園であったが、鎌倉後期には狩田中条(小布施町中条)に三善(みよし)矢野伊賀入道(倫綱(ともつな))の知行地が存在している。この三善矢野氏は得宗被官になっており(円覚寺文書)、この狩田郷の故地には地名の「最明寺(さいみょうじ)」があり、最明寺入道北条時頼の回国のとき造営されたと伝承されている。和田氏の勢力が、得宗被官らによって侵食されつつあった。

 小市渡しのあった小田切には西明寺(さいみょうじ)という寺がいまも残っているし、その対岸には戦国時代に「河中島小松原郷内西明寺」(『信史』①)があった。犀川の重要な渡し場である小市の両岸に西明寺があったのである。この地は北条時頼の所領となっていたのである。

 鎌倉時代に善光寺領であった真島郷でも、「最明寺屋敷」「鎌倉沖」の地名かおり、最明寺入道回国のとき開基したという伝承が残っている(『県史通史』①)。これらの最明寺入道時頼の回国伝説の残る地は全国各地に存在し、その多くはじっさいに得宗領であったところが多い(『豊田武著作集』)。善光寺平でも最明寺伝承のある地は交通の要衝であり、渡しや橋などがおかれ関料(せきりょう)や津料などを徴収でき経済的にも重要な場であった。そうした地に北条氏の所領が設定されていったことがわかる。