御家人の困窮・疲弊

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鎌倉後期にもなると、有力御家人といわれた一族のなかでも、番役勤仕(ごんじ)など所役の出費が増加するのに、所領の分割相続などで収益は減少するなど経済的に困窮するものが多くなった。一族間での訴訟や争いが激しくなり、幕府や京都への出訴が増加するようになった。

 北信濃随一の有力御家人である太田荘地頭島津氏の場合をみると、建治(けんじ)三年(一二七七)島津久長は、御家人として負担を命じられた京都六条御所の造営役二五三貫七〇〇文が支払えなくなった。このために、将軍家の大工であった池上宗親(むねちか)に津野郷(長沼津野)の収益二〇〇貫文を三年間にわたって年期売りに出さざるをえなかった。この津野郷は、千曲川の自然堤防上にあり後背湿地をもつとともに、千曲川の渡し場として利用された津でもあった。神代(かじろ)郷(豊野町豊野)の地頭得分は一年間で四二〇貫文であったことからすれば、その半分ほどである。

 ところが、池上宗親の子息宗仲は一年間の収納が二〇〇貫文に不足するとして、さらに二年間の知行を要求したのである。このため、地頭久長は代官薄葉(うすば)景光を通じて幕府の法廷に提訴し、弘安(こうあん)四年(一二八一)三月二十一日幕府下知(げち)状を獲得した。宗親の知行が三ヵ年にわたっている以上本主久長に返却すべきだ、との裁定がくだった。宗仲は納得せず相論(そうろん)をつづけ、永仁(えいにん)三年(一二九五)になって再度久長勝訴の判決となった(『信史』④)。しかし、これで津野郷にたいする久長の知行権がじっさいに復活したかどうかはわからない。当時の訴訟制度からすれば、判決が出ても不服であるならば当(とう)知行といって実力で知行していることも許された。自力救済の原理である。島津氏は津野郷を年期売りに出してから、じつに一八年間にわたって裁判をつづけ、勝訴しても所領支配を回復することができたかどうか不明である。

 幕府の公文所(くもんじょ)の役人として著名な三善(みよし)氏も、更級郡石川荘二ッ柳郷(篠ノ井二ッ柳)と水内郡長池郷(朝陽北長池・古牧南長池)に一分地頭として所領をもっていた。長池は和田石見入道一門や小田切氏の女子など複数の御家人の所領が錯綜(さくそう)するところでもあった。中世の裾花川である南北八幡川の流末があり、千曲川の後背湿地でもあったから干害を知らないところといわれてきた。南長池には「屋敷」「古宮」「長池田」の地名が残り、北長池には「公門(くもん)前」「領家田」などの地名があった。荘園の公文所(くもんじょ)や領家の佃(つくだ)など直営地もおかれ、鎌倉時代には開発のすすんだ先進地であった。この領主三善康基は正和(しょうわ)五年(一三一六)、二ッ柳郷の名田(みょうでん)を四五貫文で八年間の年期売りに出した。幕政に参加する御家人ですら、経済的困窮から相伝(そうでん)の名田を質にして借財せざるをえない状況に追いこまれていたのである。

 債務に苦しむ御家人が所領を売却せざるをえなくなっていたのは全国共通であり、幕府もその救済策として永仁五年(一二九七)に永仁の徳政令を発した。御家人領の売買が無効とされたが、しかし御家人らの土地売買や債務関係は増加していった。

 まして、地元の中小御家人は所領維持がむずかしく訴訟に巻きこまれることが増えた。御家人は分割相続であったから、女子分や後家分か実家から離れて姻族の手に渡ることが多くなり、相続をめぐる訴訟も激増した。

 たとえば、関屋三郎入道蓮道(れんどう)という武士が『市河文書』の訴訟史料のなかに登場する。かれは小田切実道の女の性阿(しょうあ)を妻にしていた。小田切実道は高井郡中野西条(中野市)と志久見(しくみ)郷湯山村(野沢温泉村)の屋敷名田をめぐって市河盛房と財産争いをつづけていたが、その裁判の途中で死去した。そのため、この訴訟は小田切氏の女子(むすめ)性阿に引き継がれ、永仁三年正月二十日に論所(ろんじょ)を分割して双方で和解することにし、三月七日幕府の評定にかけられた。しかし、幕府下知状が発給される前にこの性阿も死去してしまった。このため、性阿跡の相続権をもっている夫の関屋三郎入道が探しだされ、和与(わよ)状による処置に異議なしとの四月十一日付の書状が作成され、幕府に提出された。これによって、ようやく正安(しょうあん)四年(乾元元年、一三〇二)十二月一日に幕府の下知状が発給された(『信史』④)。

 夫の知らないところで、妻が実父の相続分をめぐって訴訟に関与し、夫もそれに関係せざるをえないという事態が進行していた。訴訟はこうして複雑をきわめ長期化せざるをえなかった。この小田切氏と姻戚関係にあった御家人関屋三郎入道については、他に史料がなくはっきりとしたことはわからない。ただ、応永十二年(一四〇五)に関屋市兵衛が松代町豊栄にある源関(げんせき)神社の社殿を造営する本願となっている(『信史』⑦)。関屋氏は戦国時代にも、埴科郡から高井郡・水内郡に所領を拡大している。鎌倉時代の関屋氏は埴科郡の地頭であったものとみてまちがいない。ここにも北条氏によって消された歴史があった。

 小田切氏については、佐久郡小田切郷(南佐久郡臼田町)を名字の地とする御家人であるが、鎌倉末期には善光寺平に進出し小田切地区にも根拠地をもったらしい。長池郷一方地頭の寄子(よりこ)として頭役にあたった小田切女子跡が存在していた(守矢文書)。こうした分割相続をめぐる訴訟によって所領が細分化されるのを避けるため、南北朝時代にはしだいに長子単独相続が登場するようになった。社会は少しずつ変化しつあった。