親族結合の変化

638 ~ 640

鎌倉後期から南北朝時代にかけて社会が転換期を迎えていたことは、武家の親族結合といわれた惣領職(そうりょうしき)の変化という点からもうかがうことができる。

 たとえば、さきにみた後庁郷の地頭諏訪部氏の場合では、承久(じょうきゅう)の乱での恩賞として諏訪部助長は出雲国三刀屋(みとや)郷(島根県飯石(いいし)郡三刀屋町)を獲得した(鎌二八二五)。かれは安貞(あんてい)二年(一二二八)二月に出雲国三刀屋郷河北と越後国佐味(さみ)荘上条内赤沢村下村(新潟県中頸城(なかくびき)郡吉川町)を息子の助盛に譲与し、助盛は寛元(かんげん)元年(一二四三)に将軍家政所(まんどころ)からその相続を安堵(あんど)された(鎌六一九二)。助長、助盛、助成と伝領し、助成は文永元年(一二六四)二人の子息に分割相続し、助親に出雲国三刀屋郷河北、助秀に三刀屋郷のうち伊賀屋(いがや)村を分けあたえ、建治(けんじ)二年(一二七六)には幕府の承認も得た(鎌一二六一〇)。助親は正応(しょうおう)四年(一二九一)につづいて正応六年に子助光に越後国赤沢村と出雲国三刀屋郷河北を譲与し、永仁(えいにん)四年(一二九六)五月二十四日幕府の安堵を得ている(鎌一九〇七六)。

 典型的な分割相続によって、一族は信濃から越後・出雲へと分散・拡大した。ここまでは、一族内部に大きな争いもなかった。しかし、助光の代になって裁判となった。助光にはじつは助清という兄がいた。助清は義助・義秀という二人の子供を残して若くして死に直面し、所領の三刀屋郷伊賀屋村、同郷矢那井(やない)村などを幼児らの母方の祖父頼秀に譲り養育・後見を頼んで死去した。このため惣領地頭職は助光が継承した。

 老い先短くなった頼秀は、助光がいつまでも郷内の伊賀屋村、矢那井村などを当知行して幼児らに返さないと、幕府に提訴して裁判となった。けっきょく、助光の当知行は認めるかわり、幼少な義助・義秀の養育は祖母尼阿性が扶持すること、伊賀屋山は幼児らの所領とすることで和解した(鎌二七九〇九)。


 このように所領が全国的規模に拡大し、母方の所領も分割相続した。養育権がからんで複雑な利害関係が裁判を長期化させ、そのため和解が増加してきたのである。そのいっぽうで、諏訪部氏は出身地の信濃では嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)後庁郷の地頭になっていたのである。

 こうしてみると、諏訪部一族は、信濃国後庁郷や出雲国三刀屋郷・越後国赤沢村などに所領を散在させていた。信濃から北陸・山陰地方をまたにかけて、全国的に所領を展開していた武士であった。幕府はこの一族を信濃国御家人として登録し、一族分の御家人役は「諏訪部入道跡」として一括して信濃の諏訪部入道を名乗る惣領家に賦課(ふか)し、一族内部の諸氏への配分は跡職を継承した惣領におこなわせていたのである。越後などに所領をもった諏訪部氏が、越後御家人として登録されていないのはそのためである。こうした「跡」という職を継承した惣領制的な御家人役賦課の体系は、一三世紀中葉に始まった鎌倉幕府の制度で、幕府滅亡までつづいていた。

 諏訪部入道跡として諏訪部一族の跡職を継承した惣領は、信濃の後庁郷の地頭で代々「諏訪部四郎左衛門」を名乗りとしていた。これにたいして、出雲国三刀屋郷や越後の所領を相伝した諏訪部氏は、出雲大社頭役の賦課を命じた結番(けちばん)帳では「諏訪部三郎入道子」(鎌一〇九二二)といわれ、「三郎入道」を称していたのである。事実、出雲国三刀屋郷では郷内の一分地頭のほかに「当郷惣領地頭」がおかれており、その職にあった助光は「諏訪部兵衛三郎」と号していた(鎌二七九〇九)。出雲大社頭役は諏訪部三郎、諏訪社頭役は諏訪部四郎左衛門というように一国規模の課役はそれぞれ別々に賦課された。これは信濃諏訪部氏と出雲諏訪部氏とが分離する出発点である。

 しかし、幕府の御所造営役などは、信濃諏訪部氏と越後諏訪部氏と出雲諏訪部氏の三つの分をまとめて「諏訪部入道跡」として信濃諏訪部氏に賦課された。遠隔地に散在した一族をまとめる惣領職の経済的負担は、たいへんなものであったことがわかる。惣領家がはやく没落するのはこのためである。出雲・越後・諏訪部氏の活動は南北朝時代にも存続するが、惣領職をもっていた信濃諏訪部氏の動向は以後不明になる。室町時代からは守護小笠原氏の被官として後庁氏が登場する。後庁氏が諏訪部氏から出た一族かどうか不明である。