若槻氏の変化と所領

640 ~ 645

領主の親族結合の変化は、信濃国若槻荘に所領を分布させながら、京方武士として活動することの多かった若槻氏の場合にも劇的な影響をあたえた。若槻氏は、平姓和田氏と同様に京都の公家政権に仕えた御家人であったから、鎌倉での活動はほとんど知られていない。『吾妻鏡』には正嘉(しょうか)元年(一二五七)正月十三日条に、若槻前伊豆守従五位下源朝臣頼定か七九歳で死去したと記載されているのみである。この時期まったく姿を示さない若槻氏が、『吾妻鏡』に取られたのはなぜか不明である。この一族は建治(けんじ)元年(一二七五)六条八幡宮造営注文では、「若槻下総(しもうさ)前司」と「同伊豆前司跡」としてそれぞれ五貫文を別々に負担すべき信濃国御家人として幕府に登録されていた。つまり、鎌倉後半の時期に、若槻氏全体をまとめる惣領職はもはや認められておらず、「下総前司」の一族と「伊豆前司跡」の一族とが別々の独立した御家人の家柄になっていたのである。この二つの若槻氏は別々の道を歩むことになったらしい。

 『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によれば、若槻頼定は伊豆守で安嘉門院(あんかもんいん)の判官代(ほうがんだい)であったから、造営注文の「同伊豆前司跡」とはかれの子孫をさすものといえる。子息義泰・定氏らは森太郎・森二郎を称し、この一族は森を名字としている。若槻氏は伊豆の出とされるが伊豆には森荘は知られず、相模国森荘は相模大工刀鍛冶の里として知られている。もともと、源義家の七男義隆は森冠者と称しており、その子孫は越後国佐橋荘(柏崎市)地頭となり、この一族が安芸(あき)国(広島県)に移って毛利氏として台頭する(『吉川町史』)。いずれにせよ、この一族は、いちはやく信濃の地からは離れ、森を本拠地にしたものと考えられる。

 他方、兄頼胤(よりたね)は下総守で若槻太郎を名乗った人物であるから、「若槻下総前司」に相当するのがこの一族である。頼胤の子頼広が押田を名乗り、その二男頼輔(よりすけ)が若槻太郎左衛門尉を称し、三男頼仲が若槻荘内多胡(たこ)・押田両郷を相伝し北白河院蔵人を勤めている(『尊卑分脈』)。若槻荘内の郷村に勢力を移植したのはこの系統である。つまり、若槻太郎左衛門尉は若槻本荘、押田頼広流は押田郷を中心に、多胡頼仲流は多胡郷を中心に発展することになったのである。

 若槻頼定は安嘉門院の判官代であった。頼仲は北白河院の院蔵人であった。北白河院は後高倉院の妻で持明院中納言基家の女藤原陳(のぶ)子のことであり、佐久伴野荘(佐久市)の領家でもあった。後高倉院守貞親王と北白河院のあいだにできた皇女が安嘉門院である。両者は母と子の関係にあった。ちょうど同じ時期に東条荘の和田氏一門が後高倉院・四条院・安嘉門院・北白河院に院蔵人や院長らとして仕えていた。和田氏と若槻氏はともに御家人でありながら、院に仕える京方武士として知己の関係にあったのである。

 南北朝期には若槻荘内押田郷(浅川押田付近)が京都の楞伽(りょうが)寺に寄進され、その寄付状が存在していた(『信史』補)。楞伽寺は関白近衛基嗣(もとつぐ)が虎関師錬(こかんしれん)のために建武年間(一三三四~三八)に建立した寺院で、虎関師錬は亀山・光厳(こうごん)天皇や足利尊氏らの信任あつく多くの所領が寄進された。皇室領である若槻荘も、一郷だけが亀山・光厳天皇らによって寄進されたのである。

 この押田郷は駒沢川左岸に位置する。駒沢川から取水した押田堰が山ぎわを走り、ここに室町時代の社殿をもつ諏訪社が立っている(第五章第一節建築参照)。この押田堰の灌漑(かんがい)地帯が押田郷である。押田氏館跡と伝承する屋敷跡が反対の浅川右岸に残っている。押田堰の取水口を守るかのような至近距離にある。


図7 若槻荘の本郷・押田郷・多胡郷

 いっぽう、浅川の分流を利用して開削(かいさく)したと思われる太郎堰が東流して若槻氏居館跡(里城)に引きこまれる。その堀跡が現在も里城池として残るが、昭和四十年代までは居館跡とともに屋敷地の景観がよく残っていた。この居館跡の用水を利用した水田地帯がほぼ字「屋敷田」の一帯である。どん沢と東条堰の流末が悪水払いの排水堰の役割をしている。館主は太郎堰と里城池の用水を一手に掌握して、この屋敷田地籍を門田として直営経営した(図7)。若槻太郎左衛門尉(じょう)の若槻本郷がこの一帯であろう。押田郷と若槻氏居館跡(里城)の用水体系は駒沢川をはさんでそれぞれ独立性をもった別個のものであった。多胡郷は、こうした浅川や駒沢の複合扇状地とはまったく別の土京(どきょう)山東山麓に位置する。田子池に隣接して田子神社と居館跡が残る(写真1)。この沢水と湧水地点を集める位置に田子神社が祭られ、その前を多胡堰が流れ田子川に注ぐ。この田子川から取水し、しだいに縦状に灌漑しながら深沢川に排水している用水堰を押田堰という(図7・『若槻史』)。この狭い地域にも、押田堰、若槻堰という同じ名前の用水堰が残っている。三男頼仲の所領であった荘内多胡郷はこの一帯と考えられる。その所領規模は三つのなかでもっとも小さい。


写真1 田子神社

 以上のように、若槻太郎左衛門尉の本郷は太郎堰と里城跡を中心にした屋敷田地籍、押田氏の押田郷は押田堰と諏訪社の門前一帯、多胡氏の多胡郷は田子堰と多胡館跡を中心にした田子一帯というように、それぞれ独立した空間と景観をなしていた。所領分布も若槻氏の三つの親族関係を反映していた。

 ところが、その南方に整然とした用水路をもつ条里区画水田の分布する一帯が広がっている。檀田(まゆみだ)地籍である。浅川から取水した四郎堰は浅川左岸の段丘上を灌漑し、北堰、中堰を分岐する。その南側に浅川から取水した五郎堰と途中で湧水を集めた檀田堰が東流する。条里水田一帯の排水堰の機能をもっている。こうして四郎堰・北堰・中堰・五郎堰が碁盤の目状に分流して檀田地籍の条里区画水田を灌漑している(図7)。

 これら用水路の分流地点に檀田神社が鎮座している。「仁平(にんぴょう)二(一一五二)申」と刻まれ信仰されている庚申祠(こうしんし)が、この神社にある。真偽は不明であるが古い開発伝承である。この棟札には「真弓田明神御本宮再建、大工棟梁(とうりょう)重右衛門安之、後見仙右衛門助光、永享(えいきょう)四子年八月廿五日」とある(写真2)。永享四年(一四三二)に真弓田神社が再建された。大工棟梁重右衛門・仙右衛門らは善光寺大工の可能性があろう。ここも灌漑地帯がひとつの完結した灌漑体系となっており、若槻本荘とはこの一帯をさすものと考えられる。平安時代には篤子内親王領でいったん摂関家(せっかんけ)の忠実(ただざね)領に移ったが、のち白河院領となり皇室領として伝領された若槻荘の中核部はこの一帯であった。


写真2 檀田神社に伝来していた永享4年真弓田神社棟札
(『上水内郡教育部会写真史料帖』)

 明徳三年(一三九二)、若槻左衛門蔵人氏朝と一族が普代(ふだい)本領として若槻本荘を知行していた。このとき、若槻氏朝は高梨朝高と一族関係を結び足利将軍の安堵(あんど)をうけていた(『信史』⑦)。『尊卑分脈』にいう若槻太郎左衛門尉と官途名を同じにしている。室町時代になっても、地元の国人領主として台頭する高梨一門に組み入れられながら、若槻氏朝とその一族が存続できたのである。押田館跡・若槻里城跡・多胡館跡はいずれも、この室町時代の若槻氏朝とその一族の居館であった。永享四年の真弓田神社再建にこの若槻氏朝一族が関係していたことはまちがいない。