御家人社会の動揺が激しくなるなかで、北条得宗(とくそう)家や得宗被官への反発が強まった。元弘(げんこう)元年(一三三一)御醍醐(ごだいご)天皇は倒幕のため笠置山に籠(こも)った。九月幕府は大軍を上洛させ、信濃守護で京都六波羅探題(ろくはらたんだい)の北条仲時もこの軍に参じていた。小笠原彦五郎(貞宗)や諏訪祝(ほうり)らもこの幕府軍に参陣していた(『信史』⑤)。いったんは隠岐(おき)に流された後醍醐天皇が、伯耆(ほうき)国(鳥取県)船上山(せんじょうさん)に脱出して倒幕の大号令を発した。幕府は足利高氏(のち尊氏)を大将として大軍を送ったが、高氏は倒幕に転じ五月七日六波羅を攻撃して壊滅(かいめつ)させた。このとき中野郷の一分地頭中野家平が六波羅攻めに参加し軍忠状をもらっている。
この日、関東では新田義貞が挙兵した。五月十一日武蔵小手指原(こてさしはら)(埼玉県所沢市)、十五日には分倍河原(ぶばいがわら)(東京都国立市・府中市)で合戦となった。このとき、信濃の御家人市村王石丸が新田方に参加し、その代官後藤信明は十一日に入間(いるま)河原(埼玉県狭山市付近)で合流し、十五日の合戦で首一つをとり、十八日の鎌倉攻めでは前浜一向堂前の戦闘で負傷した。この戦功を報告して新田義貞の証判を得ている。この市村氏は王石丸という童名のままであり成人していなかったことがわかる。市村一族を代表する惣領(そうりょう)家は倒幕の挙兵に参加しなかった。建武二年(一三三五)十一月十日、信濃国市村八郎左衛門入道跡の所領は足利氏によって没収され、足利一門の畠山貞康に宛行(あてが)われている。惣領家はむしろ建武政権にあくまで反対し所領を没収されたのである。
これと類似した事例に信濃国布施五郎資平(すけひら)の場合がある。かれも搦手(からめて)大将軍新田兵部大輔(ひょうぶだいふ)義貞に属し、侍大将軍岡部三郎の下知にしたがって五月十九日鎌倉長勝寺前での合戦に参加し、翌日からの三日間巨福呂(こぶくろ)坂での戦闘に参加している(『信史』⑤)。この文書は、有浦文書にふくまれ、史料的性格が不明で検討の余地ありとされている。この布施氏は、建長二年(一二五〇)当時布施左衛門跡が知られ(『信史』④)、「左衛門尉」が官途(かんと)(職務・地位)であったから、この五郎を名乗る武士は布施氏のなかでも庶子の傍流(ぼうりゅう)であった。このように、六波羅攻めや鎌倉攻めにいち早く参戦した武士は、中野家平にしても市村王石丸や布施資平にしてみても、一族を代表するような武士ではなかった。惣領家が建武政権に反対し所領を没収された市村氏の事例は、信濃では例外ではなく、むしろ一般的であった。
信濃は諏訪氏に代表されるように、北条得宗方に組織された勢力が圧倒的であった。それゆえ、この倒幕運動に参加したものは少数派であり庶家や未成年者であった。このため建武一統によって朝敵所領没収令が出されると、信濃の旧北条勢力は所領を失うことになっていっせいに反発し、北条時行を擁して諏訪祝とともに建武二年の中先代(なかせんだい)の乱にいち早く参加していった。足利尊氏が後醍醐天皇と決別して元弘没収地返付令を出したとき、旧北条勢力はすぐ足利尊氏を支持し信濃でも足利政権の社会的基盤ができあかってくるのである。その過程は次節で描かれる。
信濃の御家人らは得宗被官になったり、神氏として諏訪氏の武士団に編成されることが多かったから、建武一統に反対して立ち上がった諏訪祝や北条時行と行動をともにするものが多かったのである。