元弘(げんこう)三年(正慶(しょうきょう)二年、一三三三)五月上旬、後醍醐(ごだいご)天皇の勅命にしたがって鎌倉幕府討伐に転じた足利高氏(あしかがたかうじ)(のち尊氏(たかうじ)と改名)は、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略した。このとき信濃守護で北方六波羅探題の北条仲時(なかとき)は、光厳(こうごん)天皇、後伏見(ごふしみ)・花園(はなぞの)両上皇らを擁(よう)して鎌倉へ脱出をはかった。その東走の途中、仲時は近江(おうみ)国番場(ばんば)宿(滋賀県坂田郡米原町)あたりで後醍醐方の配備した野伏(のぶせり)に襲撃され、四三〇人余の譜代の家人(けにん)や被官ともども同地の蓮華寺(れんげじ)において白刃して果てた。
これと相前後して関東では元弘三年五月はじめ、新田義貞(にったよしさだ)が討幕のために本領の上野(こうづけ)国新田荘(群馬県新田郡一帯)に挙兵し、鎌倉に向けて進発した。義貞のもとには、建武(けんむ)新政府成立後の建武二年(一三三五)ころ信濃守護職に任じられる小笠原貞宗(さだむね)とその父宗長(むねなが)や、水内郡市村高田(いちむらたかだ)荘(芹田南・北市、古牧上・南高田一帯)の地頭と思われる市村王石丸(おうじゃくまる)の郎従(ろうじゅう)後藤信明以下、数多くの信濃・関東地域の諸領主らが結集していた。同年五月下旬、新田軍は北条方と激戦のすえ、北条高時(たかとき)ほか同一門と御内人(みうちびと)らを鎌倉の東勝寺(とうしょうじ)に自滅させ、約一五〇年つづいた幕府を討滅した。
このとき高時の遺児亀寿丸(かめじゅまる)(のちの北条時行(ときゆき))は、得宗(とくそう)被官の諏訪盛高(もりたか)に守られて諏訪にのがれ潜伏した。諏訪氏は鎌倉中期の諏訪盛重(もりしげ)以後、北条氏のもとにあって勢威を築いていた一族である。信濃国内には、諏訪社信仰とのかかわりによって神(じん)(みわ)氏を名乗り、諏訪氏を盟主にした神党ともいうべき党的結合を果たした武士などが多くいて、諏訪氏は国内に隠然(いんぜん)とした勢力をつちかっていた。それだけに諏訪氏が時行をかくまったことは、建武新政の成立以後、南北朝期にかけての信濃国の政情に大きな影響をもたらすことになった。
鎌倉幕府倒幕に成功した後醍醐天皇の諸政策は、王権の強化を意図して執りおこなわれ、その支配は綸旨(りんじ)の万能・絶対性に象徴される勅裁主義を特色としていた。具体的には「朕(ちん)ガ新儀(しんぎ)ハ未来ノ先例」(京大本『梅松論』)という政治方針のもとに、天皇の親裁による専制支配は、それまでの公武社会の先例や旧慣を払拭(ふっしょく)することに置かれていた。そうした天皇の「新儀」によるいくつかの諸施策のうち、以下には地方支配における国司制度の改革や所領政策などの二点を取りあげて、これらの実情について見てみることにしよう。
天皇は国司の権限を強化し、従来の官位相当制(かんいそうとうせい)を無視して国守の任免をすることにより、中央集権的な地方支配をおこなおうとした。信濃国にあっては公家身分で任命された国司が当地に赴任し、国内全般にわたる指揮命令権をあたえられて国務を管掌(かんしょう)した。このような信濃国司には、元弘三年十月段階に着任した書博士(てのはかせ)清原真人(まひと)某以降、神祇伯(じんぎはく)家の白川資英(すけひで)、真人某の再任と推測される清原氏および堀川光継(みつつぐ)の延(の)べ四人が数えられる。長くても一年半未満という、短期間の国守活動であった。
この国務を遂行(すいこう)するうえで任国信濃に赴(おもむ)いた国司には、軍事指揮権がゆだねられていた。建武二年六月、高井郡の市河助房(すけふさ)・経助(つねすけ)兄弟は、前任の国司と交替して再赴任した清原真人某と推定される国司の出迎えに参向した。そのおりの助房兄弟による着到状(ちゃくとうじょう)には、「国司侍所(さむらいどころ)」職にあった平顕直の証判が据(す)えられていた(『信史』⑤『市河文書』)。信濃国衙(こくが)には侍所が置かれ、国司の管轄(かんかつ)下に一定の武力が組織されていたことが知られる。この国司侍所の存在は、この時期国司と守護が併置されていた信濃国にあっては、軍事指揮活動を一職掌としていた守護とのあいだで一国の軍事指揮権が分有されていたことを示唆(しさ)するものであった。
こうした軍事指揮権分化の実態は、建武二年春、奥信濃に蜂起(ほうき)した北条氏与党の常岩宗家(とこいわむねいえ)が鎮圧された経緯のうちにうかがうことができる。同年二月はじめ、信濃国衙が「朝敵人」とした常岩氏らの不穏な動きに対処するために、国司配下の在庁であったと思われる平長胤(ながたね)は市河助房に後醍醐天皇の綸旨を伝え、一族をあげて国司のもとにはせ参じるよう命令をくだした(『信史』⑤『市河文書』)。軍勢催促をうけた助房は、二月すえに甥(おい)の市河助保(すけやす)(助泰)を代官として、国司のもとにではなく埴科郡船山(ふなやま)(戸倉町・更埴市)の守護所に向かわせ、助房自身は翌三月の初旬、弟の倫房(ともふさ)・経助らとともに善光寺から守護の小笠原貞宗のもとに参陣して、水内郡常岩北条(飯山市)に挙兵した常岩氏の攻略戦にしたがうという行動をとっている。
市河助房は国司方の催促に応じてその膝下(しっか)に着到することなく、助房自身の自主的な判断によって守護貞宗のもとへと出向き、貞宗の軍事指揮をうけているのである。ここには信濃国の軍事権が国司と守護とに両分され、国司、守護のいずれが在地領主を従属させ軍事指揮をするかについて、統一性を欠く指揮系統にあった実情が露呈(ろてい)されている。建武政権の信濃における軍事権は、国司と守護という指揮者の並立によって、混乱のきざしをみせる状況にあったといえよう。
他方、新政府の所領政策においては、鎌倉倒幕後まもない元弘三年六月、あらゆる所領の領有権を天皇の意思を示す綸旨によって再確認する旨の「個別安堵(あんど)法」が発せられた。この法令には、北条氏に没収された所領を復旧させる意図もこめられていた。綸旨による所領知行(ちぎょう)の決定という法の実施は、それまでの武家社会の慣習法である知行年紀法(ねんきほう)が無視されていたことから、武士たちに不満や不安感をいだかせ各地に混乱を巻き起こすにいたった。このために新政府は翌七月下旬、北条氏与党以外のものが現実に知行している当知行の所領は、権利の有無にかかわらず一律に安堵の対象とすることとし、その執行手続きを国司に委任する法を出して処理させることにした。この「諸国平均安堵法」の公布によって、それまで新政が原則としていた旧領回復・天皇親裁の方針は、後退を余儀なくされることになった。
元弘三年十月、市河氏惣領(そうりょう)の助房は、元亨(げんこう)元年(一三二一)に父盛房(もりふさ)から伝領した高井郡志久見(しくみ)郷(栄村)惣領職、同郡中野郷内西条(中野市)の田在家などの安堵を、着任早々の信濃国司清原氏に申請した。翌月、これらの所領は当知行地として、外題(げだい)安堵の様式をとる信濃国宣(こくせん)によって安堵をうけた。市河氏は、後醍醐天皇の倒幕にさいして主力軍勢であった新田義貞、ついで足利高氏に属し、反北条氏方として活動したことから諸国平均安堵法にいう適用をうけることのできる有資格の領主であった。
当知行地の安堵があったいっぽうでは、以前に失っていた所領を新政府から安堵されて回復した領主もいた。諏訪頼貞(よりさだ)(円忠(えんちゅう))は政務の才(さい)を認められ、新政府が所領相論(そうろん)を審理・裁決する機関として設置した雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)において、三番・東山道方の一所衆として責務を果たしていた人物であった。この功績によってであろうか、かれは、鎌倉期すえに北条(甘縄(あまなわ))時顕(ときあき)領となっていた本領地の更級郡四宮(しのみや)荘内北条(篠ノ井塩崎)の地頭職を、建武元年(一三三四)六月の綸旨によって返付され、安堵をうけることができた(『諏訪史』第三巻など)。
しかし、北条の地の円忠への沙汰(さた)付けは、翌建武二年すえころにいたっても順調にはすすめられていない。四宮荘周辺には円忠と同じ神氏一党でありながら、円忠とは異なり、あくまで旧北条氏に与(くみ)して新政権の支配に抵抗する同荘地頭四宮左衛門太郎のような領主らがいたからである。四宮氏らは、雑訴決断所の所衆に登用され建武新政府の庇護(ひご)下に入った円忠に反発して、北条の地を円滑に引き渡すことを妨(さまた)げていたことが推察される。ここには公権力の発する法令に準じて旧領の回復がはかられたとしても、現実に実効性のある領主権を確保する途(みち)は、容易ではなかったことが明らかにされている。
このように新政府の所領政策には、二様の方向性が併存していたことが知られる。ひとつは鎌倉幕府の確立した当知行保護の原則にもとづいて、所領の保全をおこなわせようとする動きであり、いまひとつは同上幕府がおこなった所領配分の方式を清算して、本領を回復させようとする方向である。この相拮抗(きっこう)する両様の方向から成りたつ建武新政の所領政策は、それだけに政治に一貫性を欠いて混迷を生み、ひいては政権の権威をも失墜させずにはおかないことを意味していたのである。