「中先代の乱」と北信濃

652 ~ 656

後醍醐天皇が鎌倉倒幕に成功し政権を掌握したあと、討伐の対象にされて朝敵人となり、不遇をかこつこととなった北条氏の一族・家人と北条氏与党の勢力による反抗が惹起(じゃっき)した。北条氏勢力による反乱は、元弘三年すえから翌々年にかけて、主に北条氏が守護職をもっていた日向(ひゅうが)・越後(えちご)・紀伊(きい)・長門(ながと)・伊予(いよ)の諸国で起こり、新政府を動揺させた。信濃国も北条義時(よしとき)以来、北条氏が守護として支配した国であり、加えて幕府滅亡時に北条高時の遺児時行が得宗被官であった諏訪社社家にかくまわれていたことなどから、国内を争乱の渦中へと巻きこむにいたった。

 信濃国内における北条氏与党の反抗は、建武二年の三月に起きている。常岩宗家は水内郡常岩の北条(きたじょう)城(飯山市)によって蜂起し、同じころ北条氏とは被官関係にあった国衙在庁の深志介知光(ふかしのすけともみつ)が、府中(松本市)において騒動を引き起こした。騒然としてきた国内の状況に備えるためもあってか、五月には守護小笠原貞宗や後年「守護御代官」と称された吉良時衡(きらときひら)が、市河氏一族らの武士を糾合している(『信史』⑤『市河文書』)。北条時行による武力蜂起は、こうした信濃国内の社会情勢を背景に、権(ごん)大納言西園寺公宗(さいおんじきんむね)による建武政府転覆、幕府再興の計画と関連しておこなわれたものであった。

 公宗の西園寺家は、承久の乱以降、鎌倉期を通じて関東申次(もうしつぎ)の職を世襲し権勢を誇っていたものの、新政下では政権の主流からは疎外されて不遇な状態に置かれていた。こうした政治的境遇を抜け出るために、公宗は持明院統(じみょういんとう)の後伏見法皇を奉じて、後醍醐天皇の親政によって中断された後伏見院政の復活をはかったのである。公宗は当時京都に潜伏し、かれ自身がかくまっていた北条高時の弟時興(ときおき)を擁し、他方で時興に諏訪にひそむ高時の遺児時行とも連係をとらせ、相呼応して挙兵する計画を企(くわだ)てた。建武二年六月、公宗の計画は露見して潰(つい)えたが、翌七月、時行は上社大祝(おおほうり)諏訪時継(ときつぐ)とその父頼重(よりしげ)の支援のもと、諏訪氏を盟主に党的な結びつきをもつ神氏一党や滋野(しげの)氏一族らを主要勢力にして挙兵した。

 時行の勢力はたちまちのうちに、信濃「国中ヲナビカス」(京大本『梅松論』)ほどに強大化した。時行勢は、建武二年六月に国司に再任されたばかりの清原氏を府中の国衙に急襲して自害させたのち、北信濃方面に軍を向けた。「中先(なかせん)(前)代(だい)の乱」の開始であった。中先代とは武家政治の立場から、北条氏を先代、足利氏を後代と見立て、その中間に位置する時行のことをさしていった呼称である。


図8 千曲川流域における「中先代の乱」合戦要図
(『県史通史』③より、一部修正して転載)

 当時の鎌倉には、元弘三年すえに後醍醐天皇の皇子成良(なりよし)親王を奉じた足利直義(ただよし)が実権をにぎる鎌倉将軍府が創設され、関東一〇ヵ国の支配・管轄にあたっていた。時行はこの鎌倉に軍勢をすすめるために、府中から東進して川中島方面に進出した。七月中旬、千曲川沿いの所々において、新政府の守護小笠原貞宗とのあいたに戦いが交わされている。

 合戦は七月十四日、神氏一党の保科(ほしな)弥三郎・四宮左衛門太郎らが、埴科郡船山郷(更埴市)の守護所を襲撃し、同郷内の青沼にいた守護小笠原貞宗と交戦したことを契機にして始まった。このとき守護方には、市河氏惣領の助房に統率された倫房父子や親宗(ちかむね)からなる市河氏一門のほか、村上勢が加わっていた。同日に助房らは村上勢とともに千曲川をはせ渡って、更級郡内の八幡(やわた)(更埴市)・篠井・四宮・小四宮の各河原(いずれも篠ノ井)に北条氏与党を追い、翌十五日にはふたたび八幡、ついで埴科郡内の福井・村上(戸倉町・坂城町)の諸河原へと戦闘を展開した。戦線がしだいに千曲川上流の佐久方面に向けられているのは、上野国をへて鎌倉をめざす時行勢の進軍を阻止(そし)しようとする守護方を、北条方の保科・四宮氏らが執拗に牽制(けんせい)したことのあらわれであろう。

 この合戦に北条方の一大将として守護の小笠原貞宗を攻撃した四宮氏は、けっきょく領主支配地にしていた四宮荘内の篠井、四宮、小四宮の各所に、市河勢ら守護方の侵攻を許して没落した。その結果、前年の建武元年に諏訪円忠が安堵されていた四宮荘内北条地頭職のうちの一分は、小笠原貞宗と同宗氏の併有するところとなった(『信史』⑤『天龍寺重書目録』)。同地は守護所の位置した船山郷とは、千曲川をはさんで北約六キロメートルを隔(へだ)てた至近の距離に位置していたところでもあった。守護の貞宗は、そうした立地条件にある地域を領有することができたのである。小笠原氏がこのように北条の一地域を領知し得たことは、それまで中・南信に勢力基盤を広げていた同氏にとって、北信濃方面への進出をはかるうえで意味をもつものであった。

 北条時行勢は千曲川流域の合戦ののち、鎌倉攻略をめざして鎌倉街道上道(かみのみち)(別称・武蔵道)を南下した。途中、将軍府の執権足利直義が鎌倉防御のために繰りだした渋川(しぶかわ)・岩松(いわまつ)・小山(おやま)氏らの軍勢を、武蔵国女影(おなかげ)原(埼玉県日高市)・小手指(こてさし)原(同所沢市)・府中(東京都府中市)に撃破して鎌倉に迫(せま)った。直義は建武元年のすえ以来、謀叛(むほん)の嫌疑をうけて鎌倉に幽閉されていた護良(もりよし)親王を殺害したうえ、みずからは武蔵国井出沢(いでのさわ)(東京都町田市)に出陣したが、敗れて三河(みかわ)国へと敗走した。七月二十五日、足利勢を一掃した時行は、宿願にしていた鎌倉に入ることができた。東・北信における合戦から、一〇日ほどの短時日の進撃であった。

 鎌倉の占拠・掌握に成功した時行に追われるようにして、三河国にのがれた直義から敗戦の報をうけた足利尊氏は、後醍醐天皇に奏上して時行討伐の勅許と総追捕使(そうついぶし)・征夷(せいい)大将軍に任命されることを求めた。天皇は尊氏の要請をいっさい拒否したために、尊氏は認可が得られないまま、八月二日に兵を率(ひき)いて京都を離れた。三河国矢作(やはぎ)宿(愛知県岡崎市)で合流した尊氏・直義の兄弟は、同月九日の遠江(とおとうみ)国橋本(静岡県浜名郡新居(あらい)町)における戦いを皮切りにして、時行軍をあいついで打ち破りつつ東下し、十九日には鎌倉を奪回した。時行は逃亡し、時行を擁立していた諏訪頼重・時継父子らは、鎌倉の大御堂(おおみどう)(勝長寿院(しょうちょうじゅいん))に自害をとげた。こうして時行の二十数日にすぎない鎌倉を確保したその日数により、「二十日先代の乱」ともよばれた乱は終息をみた。