室町幕府の創設

663 ~ 668

建武二年(一三三五)十二月、後醍醐天皇と決別した足利尊氏は、天皇がくだした新田義貞を大将とする討伐軍を箱根・竹ノ下(静岡県駿東(すんとう)郡小山町)に撃破し、西走する新田軍を追って京都を制圧した。しかし、翌三年二月上旬、陸奥(むつ)国から追撃してきた北畠顕家(きたばたけあきいえ)や京都に逃げ帰っていた義貞らの反撃にあい、摂津(せっつ)国打出浜(うちでのはま)(兵庫県芦屋市)一帯の戦いに敗れて九州へと敗走した。この尊氏が九州に後退するまでのあいだに、北信濃地域では足利氏方と対戦する北条氏与党勢力の動きが、前掲の表1から知られるように一、二見受けられた。

 建武三年正月半ば、尊氏方の守護小笠原貞宗、村上信貞らは、市河経助・同助泰らを率いて埴科郡英多荘内清滝城を数日にわたって攻撃した。ついで経助は清滝城攻撃から旬日を出ないうちに若党・中間たちを引き連れ、惣大将軍村上信貞の指揮のもと、更級郡牧城による滋野氏一門の香坂心覚(しんがく)の攻略戦に臨んでいる。同年二月中旬、故北条高時の弟時興が北条氏被官の深志介知光らとはかって、更級郡麻績御厨一帯で守護小笠原貞宗一族や村上信貞らと戦っているが、この兵戈(へいか)も北条氏勢力の復活をかけておこなわれた同種の合戦であった。


写真5 牧城跡の一角にたつ普光寺 (信州新町普光寺)

 ところで尊氏は九州に退去するまでのあいた、遅くとも建武三年二月上旬までに、「元弘没収地返付令」を発令した。その内容は、鎌倉幕府滅亡直後に後醍醐の建武政府が没収していた北条氏与党者の所領を、すべて返付するというものである。この法令は諸国の北条氏与党の武士ばかりだけでなく、足利氏と利害を異(こと)にしていた天皇方の武士や、そのほか去就を曖昧(あいまい)にしていた数多くの武士たちを、尊氏側に引きつけるうえで効果があったとされている。

 貞和(じょうわ)三年(正平(しょうへい)二、一三四七)に故市河助房の娘藤原氏は、父助房分跡の高井郡志久見郷内加志賀沢(かじかざわ)村(栄村)の安堵を幕府に請願した。このとき幕府は同地を藤原氏に安堵するにあたり、助房の弟経助に指示して、藤原氏がこの地を当知行しているかどうか、藤原氏の領知に異議を申し立てる人がいないかどうかなどのほかに、この地の「元弘収公の段」についても確認をさせている(『信史』⑤『市河文書』)。尊氏が返付令を施行してから一〇年余を経過したこの時点にあって、加志賀沢村が元弘没収地であるか否(いな)かが問われていることは、この法令が奥信濃の領主にも理解されるほどに広く受容されていたようすがうかがわれる。

 元弘三年の建武新政府による所領収公に不満をいだいていた問題に端(たん)を発し、その後の去就を迷わせ動揺をきたしていた武士たちは、この法の適用を求めて尊氏のもとに結集したことが考えられる。そのうえこの法令は、新政府の枢要な政策であった土地政策を正面切って否定していたことから、尊氏の意図する政治の方向が後醍醐の新政そのものとは背離(はいり)して、、鎌倉幕府法への回帰による武家政治の継続にあることを示唆していたことに注意される。

 さて、摂津国で敗れた尊氏は九州へ退去したが、そのあいたに戦局を有利に導き自己の軍事行動を正当化するために、持明院統の光厳上皇から院宣(いんぜん)を得た。この院宣を背景に軍容(ぐんよう)を立て直した尊氏は、建武三年六月半ばまでには再度京都を制圧することができた。同年八月、尊氏は光厳上皇の弟豊仁(ゆたひと)親王を践祚(せんそ)させて光明(こうみょう)天皇とし、十月に両統迭立(てつりつ)を条件に比叡山をおりて帰京した後醍醐に皇位継承の象徴である神器の授受を申し入れ、翌月はじめにはこれを実現させた。その後、尊氏は全一七ヵ条からなる『建武式目』を制定して、室町幕府の創設を内外に明らかにした。光厳院政のもとに再興された幕府には、早くから設けられていた将軍を補佐する執事(しつじ)(のちの管領(かんれい))・侍所のほかに、政所(まんどころ)・恩賞方(おんしょうかた)・安堵方(あんどかた)・問注所(もんちゅうじょ)・引付方(ひきつけかた)などの諸機関が整(ととの)えられ、国々には守護が設置された。

 他方、後醍醐天皇は叡山を下山する以前に、皇太子恒良(つねよし)、尊良(たかよし)(のちの後村上(ごむらかみ)天皇)の両親王を新田義貞とともに越前(えちぜん)へ、尊澄(そんちょう)法親王(のちの宗良(むねよし)親王)と北畠親房(きたばたけちかふさ)を伊勢(いせ)に、懐良(かねよし)親王を吉野の諸方へと赴かせて、再挙の足固(あしがた)めとしていた。そして、みずからは十二月すえにいたって京都を脱出して吉野(奈良県吉野町)に潜幸(せんこう)し、正統な天皇は自分であることを主張した。こうして吉野の後醍醐による南朝と、京の光明を擁する北朝という南北の両朝が並立する事態となった。これ以後、諸種の階層を巻きこんだ対立・抗争からなる全国的な戦乱である「南北朝の内乱」が、半世紀余りにわたって展開されることになったのである。

 足利尊氏が京都を再制圧した建武三年からの数年間、あわただしく推移する中央の政情にくらべて信濃国内は平静さを保っていた。その要因のひとつは、尊氏の発布した元弘没収地返付令が北条氏方の武士にも受け入れられて反尊氏の動機が希薄化し、尊氏の陣営に結集することの有利さが浸透したこと。他のひとつとしては、信濃国内の武士が勲功(くんこう)の賞や沙汰などを期待して足利氏側につき、主として国外の新田義貞与党勢力の討伐に出陣したこと等々が指摘されよう。

 後者の国内武士による義貞与党討伐の信濃国外への出陣に関しては、建武三年十月半ば、恒良・尊良親王を奉じて越前国金(かな)ヶ崎(さき)城(福井県敦賀市)によった新田義貞にたいして、尊氏が早速(さっそく)に信濃守護代小笠原兼経(かねつね)の弟経義(つねよし)、信州惣大将軍村上信貞らに越後国への出兵を命じた事例をあげることができる。この時期の越後国は、元弘三年に義貞が建武新政府から守護権を包摂(ほうせつ)した国司に任じられ、国司・守護兼帯のもとに分国支配をおこなっていた国であった。そうした国情下の越後にあって信濃と国境を接する中魚沼(なかうおぬま)郡一帯は、鎌倉中期以来新田一族が繁衍(はんえん)して近くの越後府中(新潟県上越市)あたりまで勢力を伸展させるほどに、新田氏の越後支配にとり枢要(すうよう)な基盤地域となっていたところである。この上越方面を攻略するために同年十月、小笠原経義は市河親宗を率いて姫川筋を警戒した。親宗は翌十一月はじめに一族の市河経助とともに村上信貞の指揮下に入って、越後の府中を襲撃した。村上氏らはこの府中攻めで、義貞が越後守護代・目代として置いていた新田氏一族の堀口貞政を、府中一帯から追いはらうという成果をあげている。

 このような小笠原、村上両氏らの越後出陣は、金ヶ崎城を拠点とした新田義貞と、これを支援しようとした上越地域の新田氏勢力の分断を目的にしておこなわれた足利尊氏の作戦であった。この作戦が終了したあと、市河氏の経助・親宗・助房代の小見経胤らは村上信貞に同道して上洛(じょうらく)し、建武四年(延元二、一三三七)正月、信貞の直接指揮のもとに金ヶ崎城の攻略に従事した。市河勢は新田軍に「夜詰(よづめ)の合戦」を仕掛(しか)けるなどの働きをして、金ヶ崎城から義貞勢を敗走させるという戦功を立てている(『信史』⑤『市河文書』)。


写真6 市河経助軍忠状 (市河文書)

 金ヶ崎城を没落した義貞は翌建武五年(延元三、一三三八)閏(うるう)七月、越前国藤島の燈明寺畷(とうみょうじなわて)(福井県福井市)に自害した。ちなみに義貞の敗死した二ヵ月前の五月には、新田勢とならんで後醍醐の南朝が反足利氏の主力として期待した奥州勢を率いる北畠顕家(あきいえ)も、和泉(いずみ)国堺浦(さかいうら)(大阪府堺市)で戦死をとげていた。南朝の軍事的敗北は決定的となった。こうして顕家、義貞があいついで戦死をとげ、南朝方の軍事的命運が壊滅の状態におちいった同五年八月、足利尊氏は北朝の光明天皇から待望の征夷大将軍の補任をうけた。

 こうした中央の政治・軍事的な抗争という激動する事態とは相違して、信濃国内では暦応三年(興国元、一三四〇)六月、これより先に吉野の朝廷から赦免(しゃめん)の綸旨を得て、このころには南朝方に属していた北条時行の挙兵がみられたにすぎない。時行は諏訪上社大祝諏訪頼継(よりつぐ)(のち直頼(なおより)と改名)を味方にして、伊那郡大徳王寺(だいとくおうじ)城(上伊那郡高遠町か)に籠城したが、守護小笠原貞宗は包囲四ヵ月のすえにこれを攻略した。このあいだの同年八月、新田義貞の遺児義宗(よしむね)は、大徳王寺城の時行に呼応するかのように、市河氏の本領地志久見郷への侵攻をはかることがあった。これにたいしては守護代官の吉良時衡が、市河倫房らを指揮して義宗勢を要撃し撃退するという結末をもって終わらせている。