島津氏にみる領主制支配

668 ~ 672

大徳王寺城の攻囲戦以後、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)が始まるまでの一〇年ほどのあいだ、信濃国内からは戦闘が途絶えて平穏な時期を迎えた。しかし、在地では旧来の権利的(職的)支配の秩序から解き放たれた在地領主が、実質的な所領的支配をもくろむ国人領主制による支配の確立に向けて活発な動きを示していた。このことを、水内郡太田(おおた)荘内大倉郷(豊野町大倉)地頭職の領有をめぐる問題を中心にして見てみよう。

 鎌倉期の太田荘には一八ヵ郷があったが、石村(豊野町石)、大倉の両郷を除く大部分の諸郷は島津氏一族が分割して相続していた。石村・大倉の両郷は金沢(かねさわ)北条氏が領有していたが、大倉郷は延慶(えんきょう)三年(一三一○)に金沢貞顕(さだあき)の養母・尼永忍(えいにん)(谷殿)から、石村郷は幕府滅亡直前の正慶元年(元弘二、一三三二)に貞顕の嫡子金沢貞将(さだまさ)から、それぞれ金沢称名寺(しょうみょうじ)(神奈川県横浜市)に寄進された。鎌倉幕府を打倒した建武政府の成立にさいしても、称名寺は勅願寺との理由をもって、大倉郷以下の寺領地領掌を認める後醍醐天皇の綸旨を得ることができた。

 この称名寺寺領の領有は、室町幕府においても継承されるはずであった。事実、幕府の開設からまもない建武三年十二月、称名寺は大倉郷を足利直義によって安堵されている。ところがその二年後の同五年(延元三、一三三八)正月、足利尊氏が大倉郷地頭職を勲功の賞として島津宗久(むねひさ)に宛行(あてが)い、称名寺を狼狽(ろうばい)させるという事態を生んだ。大倉郷地頭職を得た宗久は島津氏本宗家の惣領であり、大倉郷の立地する太田荘内の石村南郷(豊野町南郷)に地頭職を所持していた。

 建武五年の四月には保巣長俊(ながとし)なる武士が大倉郷に押妨(おうぼう)を働く事件があったが、幸い当人の逐電(ちくでん)でことなきを得た。このとき称名寺は保巣氏の押妨を、禅宗・律宗寺院関係の訴訟を取り扱う幕府禅律方(ぜんりつがた)に訴え出た。これにたいして禅律方では村上信貞に、同寺の大倉郷所務沙汰(しょむさた)がまっとうできるよう遵行(じゅんぎょう)を命じている。こうして称名寺は幕府が大倉郷を寺領地として認知しているとの確証を得ることができたものの、宗久への大倉郷宛行いは称名寺を困惑させるのに十分なところがあった。


写真7 大倉地区の景観 (豊野町大倉、左の山は大倉城跡)

 尊氏の宗久にたいする大倉郷宛行は勲功の賞としてであったが、この時期、尊氏がこうした恩賞政策をとっていた事例は数多く残されている。信濃国内の例としては、建武五年に更級郡石川郷内小山田村(篠ノ井)地頭職を志水実俊(しみずさねとし)に、貞和元年(興国六、一三四五)に高井郡中野郷内東条(中野市)の中野佐藤太跡地を岡本良円(観勝房)に、貞和三年(正平二、一三四七)には守護小笠原貞宗に筑摩郡塩尻・島立(しまだち)(塩尻市・松本市)郷など信濃春近(はるちか)領半分の地を、いずれも勲功の賞としてあたえている。尊氏がこのように所領給与という恩賞政策をとったのは、南朝勢力を圧倒する強大な軍事力を築くために、かれらを軍事編成する必要に差し迫られていたところにあった。所領給付を媒介にした尊氏のこの施策は、島津氏ら領主層の所領拡大の要求を満たすことによって、尊氏の有する主従制支配のもとに取りこみ、軍事力として編成しようとする人心吸引策にほかならなかった。

 このように島津宗久の大倉郷獲得が尊氏の軍事力構築を目的になされたものであったとしても、それは本来的には尊氏が宗久との主従関係を形成・維持してゆくために、精神的、物質的に保障する恩賞給付にもとづいてなされたものであった。こうしたいきさつをもつ宗久の大倉郷領有の問題を解決するために、称名寺は幕府上層部に「秘計(ひけい)を廻(めぐ)らし」ての対応をはかった(『金沢文庫古文書』)。その結果、建武から暦応と改元されたその年の十二月には、大倉郷を宗久から称名寺に返付させて、同寺に安堵する旨の足利直義の御教書が発給された。称名寺はふたたび大倉郷地頭職の領有に関して、幕府による法的な保障を得ることができたのである。

 返付の命令をうけた宗久は、大倉郷を称名寺に引き渡す旨の去状(さりじょう)を幕府に提出した。しかし、称名寺が危惧したように、大倉郷を当知行する宗久にたいして同郷にかわる替地(かえち)が用意されなければ、称名寺への大倉郷打渡(うちわた)しは困難さをともなうという状況が展開した。暦応三年(延元五、一三四〇)に宗久が死没した以後も、大倉郷の経営にたずさわっていた宗久の代官らは、依然として同郷を領有しつづけている。代官たちは、諏訪社上社御射山頭人(みさやまとうにん)役にあてられたとして、守護の小笠原政長(まさなが)に大倉郷に関する遵行の延期を求めたり、あるいは千曲川を

はさんで大倉郷の対岸に位置する高井郡高梨本郷(小布施町)に勢威を伸ばしていた高梨経頼と語らうなどして、大倉郷の押領(おうりょう)を継続している。

 観応の擾乱が終息するころまで、幕府は一貫して大倉郷を称名寺に安堵する方針を崩さなかったにもかかわらず、島津氏による同郷の押領は執拗(しつよう)におこなわれている。そうした動静の推移について、正平七年(観応三、一三五二)に称名寺の雑掌幸円は、足利直義に故島津宗久跡の輩(ともがら)が大倉郷を違乱することを停止させて、同郷の称名寺への引き渡しを訴えるべく申状(もうしじょう)を作成した。幸円はその申状案のなかで、つぎのように摘記(てっき)している(『金沢文庫古文書』)。

大倉郷は尊氏将軍の治世になって安堵をうけ、以後、とどこおりなく知行をしてきました。ところが建武年中以来、故島津宗久の代官たちは、近隣の高梨経頼を相語らって大倉郷の押領を取りつづけています。このために幕府禅律方に訴えて、しばしば大倉郷の領有を安堵する旨の幕府御教書を発給していただきましたが、島津氏はいままで一度も、幕府の御教書にいう安堵の裁許を聞き入れる態度をとったことがないありさまでおります。

 幸円の上申(じょうしん)しようとしたところによれば、島津氏は建武年間以来、近隣の高梨氏と地縁的な結合をとりつつ、幕府の命令を無視して大倉郷を押領し、継続的な知行を試(こころ)みていたとされている。幸円のいうこの島津氏の姿勢は、幕府権力とは一定の距離を置いて、みずからの実力で地域的な所領支配をめざそうとする国人領主制支配の実態を如実(にょじつ)に示している。この時期、そうした島津氏の領主支配に苦慮していた称名寺関係の某は、「すへて上の御沙汰は厳重に候へとも、当時の通法、妄惑(もうわく)申すばかりなく候」と述べるところがあった(『金沢文庫古文書』)。「上」たる幕府の遵行命令は、島津氏の実力支配による地域的領主支配の前に断ち切られ、しかもそのことは「当時の通法」と認められるほどに、普遍的なことがらに属す体(てい)になっていたとされている。国人領主の島津氏らが、在地支配を進展させる必要から作りあげた「通法」は、幕府権力の浸透をよそにして成りたっていたことが知られる。幕府権力の法秩序を保障のよりどころにして大倉郷の領有を策した称名寺にとっては、それは「妄惑」以外のなにものでもなかったといえよう。

 観応の擾乱が開始されるころまで表面上平穏さがつづいていた信濃国内にあって、北信濃の在地では称名寺寺領の大倉郷に集約されるような、従来の権利的支配に依存した所領の支配は困難の度合いを増していたことが知られる。それは島津氏のように、不法な押領地をも完全な占有が保たれている所領として当知行地化し、在地性に即(そく)した地域的所領を形成して支配をおこなうという動きがもたらしたものであった。このように北信濃の在地では、国人領主制の支配にかかわる構造的な変革が推しすすめられていたのである。