建武五年八月、足利尊氏は征夷大将軍に任ぜられたが、幕府の制度上の主権者であるこの将軍の地位と権限は、尊氏・直義「兄弟一時ニ相雙(あいならん)デ、大樹(たいじゅ)(将軍のこと)ノ武将ニ備(そな)」(『太平記』巻第十九)わるという形をとって成立していた。そこには将軍権力が分割され、両頭政治がおこなわれる要因が胚胎(はいたい)していた。
この両頭政治にあって、尊氏は主として政所・恩賞方・侍所を管轄し、武士にたいする恩賞の宛行いや守護職補任の権限などを掌握していた。直義のほうは安堵方・引付方・禅律方・官途(かんど)奉行・問注所などの諸機関を指揮下に置いて、民事裁判や所領安堵などの政務を管掌していた。いわば尊氏は全国の武士を家来(けらい)として従属させる武家の棟梁として主従制的支配権を把握し、直義は全国的な政務の統轄者として統治権的な権限を保持していたことになる。幕府の政治はこうして将軍の権限を分化させて、二頭制による二元政治の性格を帯びてすすめられたのである。
尊氏・直義の二元政治の内情については、前項においてふれた称名寺と島津氏とのあいたに生じた、建武五年段階における太田荘内大倉郷地頭職の領有にかかわる問題のうちに知ることができる。建武三年に直義が称名寺に安堵した大倉郷は、同五年正月、尊氏から島津宗久に恩賞地としてあたえられた。これにたいして称名寺が禅律方に訴え出ると、直義は所轄の禅律方において審理のうえ同年十二月、大倉郷を称名寺に改めて安堵する御教書をくだした。発給された直義の御教書は、まず称名寺の大倉郷領有は、金沢貞顕跡とした北条氏旧領の闕所(けっしょ)地に相当する地頭職にあるのではなく、延慶三年に尼永忍が同寺へ寄進したことにもとづく地であると指摘する。このことを前提にして、尊氏の島津宗久への宛行いはこの事実と相違しているゆえに、称名寺の主張する大倉郷の領有が正当であるとしていた。
このように直義の裁決は、鎌倉期にまでさかのぼって称名寺の大倉郷を領有する権利を尊重し、寄進地であることを主張する寺側の言い分を認めて勝訴としたものであった。直義の御教書は、結果的には尊氏が主従制的支配権から発して島津氏に大倉郷を恩賞給付した施策を、一年もたたないうちに取り消すということに作用したのである。
直義の鎌倉幕府的秩序を理想とし、法秩序を重視して維持しようとする政治理念は、論人(ろんにん)である島津宗久に大倉郷を称名寺に返付させるという決着をあたえた。こうした直義の政策は、島津氏のように実力による地域的な所領支配の拡大を望む国人武士たちに直義を見限らせることになった。そうした武家領主たちは、ラディカルな領主制展開の行動を容認(ようにん)する尊氏および尊氏の家政を補佐していた執事高師直(こうのもろなお)の執政に期待を寄せるにいたった。幕府部内におけるこのような異なる政策理念は、直義に集約される漸進主義の途と、尊氏の執事師直に代表される急進的な立場となってあらわれた。両者はそれぞれに党派を結成し、幕政の方向をめぐる権力争いを招くことを避けられないものとしたのである。
貞和五年(正平四、一三四九)にいたって、直義と高師直との対立は表面化した。前年に南朝方の楠木正行(くすのきまさつら)を倒し、吉野に攻め入り行宮(あんぐう)を焼き払うなどの戦果をあげて勢威を高めていた師直に危惧をいだいた直義は、五年閏六月、尊氏に迫って師直の執事職を罷免(ひめん)させた。これに反撃した師直は同年八月に、尊氏の三条新第(しんてい)を包囲して直義の政務引退を要求した。この京都の騒動は尊氏が調停し、けっきょく直義の政務を停正して、その政務は尊氏の嫡子義詮(よしあきら)を鎌倉から上洛させておこなわせること、師直は執事の職に復帰することなどを約して収拾をみた。しかし、九月に師直が中国探題として備後(びんご)にいた直義の猶子(ゆうし)足利直冬(ただふゆ)(尊氏の実子)に、追討の兵を差し向けたことから両者の対立は決定的となった。直義は翌観応元年(正平五、一三五〇)十月すえ、京都を出奔(しゅっぽん)して大和(やまと)方面にのがれたのち南朝に帰順するとともに、師直を追討するために諸国の直義与党にいっせい蜂起をうながした。ここに全国の幕府諸勢力を二分し、前後三年におよぶ「観応の擾乱」が開始されることになった。
観応二年(正平六、一三五一)正月、北陸・畿内南部の直義勢力の結集に成功した直義は、貞和五年の初冬に鎌倉より上洛して父の尊氏と幕政を共同統治していた義詮を京都から追放して入京した。この直義の攻勢にたいして、翌二月半ば、尊氏は直冬討伐のために出陣していた備前(びぜん)から引きかえし、直義勢と摂津国打出浜に決戦を挑(いど)んだものの大敗を喫(きっ)した。この合戦には、前年の観応元年十月すえに尊氏の軍勢催促に応じて上洛していた小笠原政長が、直義方に属して参戦していたことに留意される。
打出浜の合戦後、尊氏は帰京したが、師直以下の高氏一族は殺害された。また、これ以前の観応二年正月半ばには、関東では直義方の上杉憲顕(のりあき)とならんで鎌倉府執事であった師直の猶子高師冬(もろふゆ)が、甲斐(かい)国須沢(すさわ)城(山梨県中巨摩郡白根町)に攻撃をうけて自害していた。師冬を攻略したのは、直義方の諏訪上社大祝諏訪直頼が率いた信濃の軍勢であった。高氏一類の滅亡により擾乱勃発(ぼっぱつ)時の紛争の一因は取りのぞかれ、京・鎌倉ともに直義とその一派による実権掌握が実現した。幕府政治は直義が義詮を補佐して運営され、幕府一統が訪れたような様相を呈した。
この平穏な政情も観応二年七月、尊氏が近江に、義詮が播磨(はりま)へとくだって、直義を挟撃(きょうげき)する巻き返し策をとったことから一挙に崩れ去った。同月すえ、身の危険を感じた直義は、斯波高経(しばたかつね)・桃井直常(もものいただつね)・山名時氏(やまなときうじ)ら直義を支持する武将と側近たちをともない、斯波氏ら直義派の諸将が守護職を独占して分国支配をおこなっていた北陸方面に退去した。この一行のなかには、信濃の直義派の中心者である諏訪直頼も加わっていた。十一月半ばに直義は、北陸から信濃をへて、直義を熱心に支持する上杉憲顕の待つ鎌倉にいたることができた。
この直義の動きにたいして尊氏は観応二年十月すえに急ぎ南朝と講和し、後村上天皇から直義追討の綸旨を得て(正平一統)、翌月はじめに京都を進発した。東海道を東下(とうげ)した尊氏は駿河(するが)国蒲原(かんばら)(静岡県庵原(いはら)郡蒲原町)以下の合戦に直義方をつぎつぎと打ち破り、翌正平七年(一三五二)正月早々鎌倉に入った。尊氏は降伏した直義を鎌倉の延福寺に幽閉(ゆうへい)し、翌二月すえに毒殺した。このように擾乱は、尊氏派と直義派との対立、幕府中枢部における足利氏一門の内部抗争という形をとりながら、諸勢力がそれぞれに尊氏、直義のいずれの政策を支持するかをめぐって衝突を繰りひろげたのである。それだけに抗争は、容易に終息するものではなかった。信濃国内でも両派の争いは、中央の政情と密接に連動して展開をみたことが知られる。
擾乱が始まってまもない観応二年正月以前、直義派の諏訪直頼は信濃の尊氏・師直派を討つために帰国し、結集をよびかけた。直頼は参集した高井郡の市河経助・泰房(やすふさ)らを率いて、同年正月五日に埴科郡船山にある守護館を焼き討ちし、十日には守護小笠原政長の弟政経(まさつね)、守護代の同兼経以下が守る筑摩郡放光寺(ほうこうじ)(松本市)を攻略した。こうした信濃国内や中央での直義方の優勢ぶりをみた小笠原政長は、尊氏派から直義派へと転身をはかり、状況が好転することを期待した。そうした政長の判断は信濃守護職を失うという事態を招いたが、観応二年七月すえに尊氏・直義のあいたに衝突が起こると、政長はふたたび尊氏方に転じた。こうしたことが契機となって、政長は信濃守護に返り咲くことができた。これにともない国内では守護に復帰した尊氏派の小笠原氏方と、直義与党の諏訪氏方とのあいだに抗争が再燃した。
再燃後の両派による角逐(かくちく)抗争は観応二年六月すえに、尊氏派の小笠原為経(ためつね)・同光宗(みつむね)が直義派の諏訪直頼代官禰津宗貞(ねつむねさだ)と高井郡野辺宮(のべみや)原(須坂市)で合戦したことを始まりとするが、それが本格化したのは八月以降のことであった。八月三日には小笠原為経・光宗は高梨経頼らとともに、更級郡富部(とべ)西河原(川中島町)において直義与党の香坂美濃(みの)介と交戦し、ついで十日には善光寺横山(城山公園)を攻める禰津宗貞らと戦った。高梨経頼は富部原の合戦で戦功を立てたものか、翌正平七年に尊氏から、中野氏が「本主」の地としていた高井郡北笠原上条郷内夜交(よませ)村(山ノ内町)の地を宛行われている(『信史』⑥『高梨文書』)。
両派の抗争はその後も継続し、北陸経由で入国した諏訪直頼は、井上氏一族の須田入又四郎領内にある高井郡米子(よなご)城(須坂市)に籠城した小笠原為経らを攻撃した。九月中旬、村上信貞らが米子城を攻めたさいには、入又四郎らが防戦し撃退することに成功している。これら北信濃における一連の戦いは、明らかに足利直義がめざした鎌倉への道筋周辺一帯に起きた戦闘であった。
信濃国内の直義派のこうした動きにたいして、信濃守護に復職した小笠原政長は直義の信濃入国あるいは関東下向を防ぐことを命じた尊氏の軍勢催促にしたがい、一族や国内の地頭御家人を動員して「通路を切り塞(ふさ)」ぐ対応策をとった(『信史』⑥『小笠原文書』)。直義の鎌倉入りしたあとの観応二年十二月、政長は小県郡夜山(おやま)中尾(小県郡丸子町)に禰津行貞(ゆきさだ)以下の数千騎を率いる諏訪直頼の軍勢を一蹴して、信濃の直義与党勢力に打撃をあたえている。
このように守護の政長は一族のほか、高梨、須田入氏ら国内の地頭御家人を組織・編成して軍事指揮下に置き、国内の直義派に対抗したのであった。このことは守護が分国内の軍事的支配を、これら御家人である国人の武力に依存して成りたたせていたことを示している。こうした関係は配下の国人層が従来の荘園制的秩序を無視して所領的支配をおこなったような場合、守護はそのような国人の行動を是認(ぜにん)するか、反対に国人のそうした動きを抑制(よくせい)するかという、二者択一の立場を迫られることにもなった。そうした実情は観応二年八月に、守護政長の軍勢催促に応じて富部西河原に直義方の香坂氏と戦った高梨経頼が、島津氏に同調して太田荘内の大倉郷を押領していた事態のうちにみることができる。
先に述べたように、高梨経頼が島津氏と結託して、大倉郷の押領行為を働いたのは建武年間以来のことであった。その違乱行為は、擾乱が起きた観応元年段階においても継続されていた。このために称名寺の雑掌光信は直義管轄下の禅律方に、重ねて経頼・島津氏らによる大倉郷違乱の停止を提訴した。同元年三月、禅律方では光信の訴えを認めて、高梨氏らの大倉郷押妨の停止と同郷を称名寺に返付する旨の裁許をくだし、その遵行を両使に任じた守護政長の守護代大井光長(みつなが)と海野(うんの)左衛門尉に命じた。光長は大井源蔵人に海野氏の代官とともに、大倉郷を称名寺に打渡す使節遵行(しせつじゅんぎょう)をおこなわせるよう取りはからった。このときの遵行は三年後の文和(ぶんな)二年(正平八、一三五三)、雑掌の光信が重訴状のなかで「こと行(ゆ)かざるの条、堪(た)へ難(がた)きの次第なり」(『金沢文庫古文書』)と述懐しているように、まったく実効性のある成果をあげるにはいたらなかった。
守護の小笠原政長にあっては、禅律方の命じる高梨、島津氏らの大倉郷違乱・押領行為の排除を、積極的には履行(りこう)しなかったようすがうかがわれる。守護の政長としては、自身の軍事力を高梨氏ら分国内の地頭御家人である国人武士に求めていた以上、必然的にかれらの押妨行為をおさえて強く規制しないようにすること、いわば使節遵行の難渋(なんじゅう)という態度をとらざるを得なかったのである。こうした傾向は尊氏、直義両者による二元政治による影響のもと、直義所轄の禅律方から出された大倉郷に関する遵行の命令が尊氏方の守護小笠原氏の前にとどこおり、大倉郷を違乱する高梨氏ら在地の国人層にまで貫徹され得ないという状況によって、いっそう助長された感がある。雑掌の光信は、直義所轄の禅律方がくだした称名寺の大倉郷領有を保障する裁定の遵行を、尊氏配下の守護政長が迅速(じんそく)に処置しないままにしているこのような状態について、「たびたび守護人(小笠原政長のこと)に仰(おお)せらるるのところ、こと行かず」(『金沢文庫古文書』)と述べて慨嘆(がいたん)している。
観応の擾乱においてこのように国人武士たちは、尊氏・直義両派の対立によってもたらされる不安定な政情を衝(つ)いて、地域的所領の支配・拡大と自立性強化への動きを、在地の諸情勢を積極的に取りこみながら展開させたことが知られる。擾乱が終息して数年を経過した延文(えんぶん)元年(正平十一、一三五六)、このころ父の将軍尊氏にかわって一頭政治による親裁権を強めていた足利義詮は、故島津宗久の実父貞久に大倉郷地頭職を安堵する下文(くだしぶみ)をあたえた。ここに義詮によって称名寺の大倉郷領有は否定され、同郷は称名寺の手から離れることとなった。
この大倉郷地頭職を安堵した島津貞久あての義詮下文には、尊氏の「建武五年正月二十四日の御下文」を引用して、それを安堵の根拠にしたことが明記されていた(『信史』⑥『島津家文書』)。引用された尊氏の下文とは、島津氏が尊氏から勲功の賞として大倉郷を宛行われ、一年もたたないうちに直義によって取り消されたものの、同氏が大倉郷進出の手がかりとした由緒を帯していたものである。その下文が義詮の島津氏にたいする大倉郷地頭職安堵の根拠とされたことは、幕府が国人領主の所領拡大の要求にこたえたことを意味していた。そこには、島津氏のような押領地をも当知行地化するにいたった国人武士を擁護するという、室町幕政の一方向性が指し示されていたといえよう。そのぶん、従来の権利的(職的)支配の秩序に依拠して大倉郷の領有をはかった称名寺は、同郷の支配から後退せざるを得ないところへと追いやられることになったのである。