正平七年二月、足利尊氏が弟の直義(ただよし)を毒殺して、観応の擾乱はひとまず終息をみた。しかし、信濃国内では直義に与していた武士たちが宗良親王と結び、あるいは親王がかれらを糾合(きゅうごう)して策動することが見受けられた。
後醍醐天皇の第五皇子にあたる親王は、幼少時に延暦寺妙法院(みょうほういん)に入室して尊澄法親王と称し、南北朝の分裂が決定的となった建武四年(延元二、一三三七)春ころ、還俗(げんぞく)して宗良を名乗(なの)った。その宗良親王が、京都より吉野に潜幸した父帝後醍醐の京都奪回という意向を体(たい)して本格的な活動を開始したのは、還俗した翌年の建武五年(延元三、一三三八)以降のことである。親王の活動は、同五年に後醍醐の南朝方が反幕府の主力として期待した北畠顕家と新田義貞とがあいついで敗死した事態を前にして、緊急の課題として立案した地方の南朝勢力再建の方策にもとづいていた。
親王はこの南朝再建策に沿って、暦応元年(延元三、一三三八)秋ころ、海道諸国のなかで比較的南朝勢力の強い地域と目(もく)されていた遠江へ下向し、同国の国衙在庁井伊(いい)氏のもとにあって、幕府方に制圧されて出奔する一年余りのあいだ当地において抵抗をつづけた。その後、親王は暦応四年(興国二、一三四一)に越後国寺泊(てらどまり)(新潟県三島郡寺泊町)、康永元年(興国三、一三四二)には越中国奈呉浦(なごのうら)(富山県新湊市)にと居所を転々とさせた。そして、遅くとも康永三年(興国五、一三四四)春ころまでには、滋野氏一族の香坂高宗(こうさかたかむね)が領する伊那谷の大河原(おおかわら)(下伊那郡大鹿村)へと赴くにいたった。
親王が居住した大河原の地は諏訪社領に属していた関係から、反尊氏・親直義派の中心勢力である諏訪氏と、その諏訪氏を盟主とする神氏一党の軍事・経済上の支援が期待できたこと。さらには諏訪氏が「父祖の忠節忘れ難」い(『信史』⑤『守矢文書』)としていた旧北条氏に味方する信濃各地の領主層を、諏訪氏を介して結集できると考えられたことなど、南朝勢力の組織化に好都合な条件を備えた境域とみなされていたところであった。親王はこの大河原を根拠地にして、応安(おうあん)七年(文中(ぶんちゅう)三、一三七四)冬に吉野に帰るまでの三十余年間を、信濃国内はもとより隣国越後や上野などの南朝方とも連携して、南朝勢力の再興と経営とに奔走することになったのである。
このような親王の活動によって、各地域での南朝勢力の動きが活発化した。北信濃では親王が信濃への入国を果たす以前の暦応四年夏、高井郡の志久見郷地域において顕現(けんげん)した。この年、寺泊にいた親王に触発(しょくはつ)されたかのように、越後国では新田義貞の遺児義宗や、これに味方する小国(おぐに)・河内(かわち)氏らの南朝方が蜂起した。この事態を憂慮した尊氏は、鎌倉府執事の上杉憲顕を鎌倉から派遣して越後国内の南朝方を征討させるいっぽう、信濃守護の小笠原貞宗にも出兵を命じた。この作戦に志久見郷の市河助房・倫房・経助の兄弟らは、中野定信(さだのぶ)の一族とともに参加し、越後国魚沼郡妻有(つまり)荘(新潟県中魚沼郡から同県十日町市一帯)の攻撃に従事した。市河氏一族は志久見川の渡し場で新田勢を撃破して追撃し、妻有荘内赤沢(新潟県中魚沼郡津南町)にあった新田氏一族の大井田経世らの居館を、焼き払うという戦果をあげている。
市河氏の攻略した中魚沼地方に立地する妻有荘は、新田氏同族の里見氏系一族が定住して、越後の新田氏一族による在地支配が形成されていたところである。この地域には新田義宗を新田氏一族の惣領(そうりょう)と仰(あお)ぎ、南北朝期に活躍する里見氏系大島氏の庶子(そし)家大井田氏らが割拠し、越後の南朝方勢力の基盤地となっていた。また、この妻有荘と隣接する市河氏の本領地である志久見郷とは、鎌倉すえに市河盛房の女子が大井田氏一族の伊賀(いが)氏に嫁(とつ)ぐなど、通婚による地域間交流がみられたところでもあった。市河氏は建武二年以来、そうしたかかわりのある妻有荘との境に位置する志久見口に設けられていた関所を警衛(けいえい)していた。暦応三年(興国元、一三四○)秋ころ、新田義宗らがこの志久見口周辺に攻め入ることがあったが、市河氏は守護代官吉良時衡の指揮のもとにこれを撃退している。
このように上杉憲顕が主導した越後南朝方にたいする制圧作戦の成功により、同国の南朝勢力は衰勢(すいせい)を余儀ないものとした。反面、市河氏の志久見郷一帯の領主制展開には、しばしの小康がもたらされることになった。