親王の挙兵と守護小笠原長基

681 ~ 684

信濃入国後の宗良親王の動静が明確になるのは、正平七年、尊氏が直義を毒殺した直後に生じた「武蔵野合戦」のおりのことである。合戦は尊氏が直義追討のために京都に子の義詮をとどめて鎌倉にくだったさい、南朝方が京、鎌倉とに二分化した幕府勢力の間隙(かんげき)を衝いて、その同時占領を目的に起こした計画的な反攻活動のひとつであった。

 正平七年閏二月中旬、先に征夷大将軍に任じられていた親王は鎌倉在住の尊氏討滅のために、上野国に挙兵した新田義宗・義興(よしおき)兄弟らに呼応するように、主に神氏一党や滋野氏一族らを率いて武蔵国笛吹(ふえふき)峠(埼玉県比企郡鳩山町と嵐山町の境)に進出した。新田軍は尊氏を武蔵の狩野(かの)川(神奈川県)に追い、いったんは鎌倉を占拠することができたが、反撃に転じた尊氏の攻勢にあうこととなった。同月すえ、親王を奉じた新田義宗は、諏訪氏以下の信濃勢および越後の新田氏一族・千屋・堀口氏らの諸勢と連携して、武蔵国小手指(こてさし)原・入間(いるま)河原(埼玉県所沢市・狭山市)一帯で尊氏の軍と交戦した。合戦は宗良親王方の惨敗(ざんぱい)となり、義宗は越後に、宗良親王は信濃へと撤退(てったい)するという結果をもって終わった。こうして関東における南朝方の反攻策として戦われた武蔵野合戦は、つかの間の成功をみただけで尊氏の攻勢をうけてあえなく潰えたのである。

 この武蔵野合戦後に帰国した守護の小笠原政長は、正平七年四月下旬、小笠原氏の家督などをふくむ後事いっさいを、嫡子の長基(ながもと)に託(たく)した旨の書状を書き残した。長基はこのとき、小笠原氏の家督とは不可分に考えられていた父政長の所持していた信濃守護職をも継承した。その長基の政治・軍事にわたる行動は、まずもって旧直義派の与党と、これに結びつく宗良親王を中心とする南朝勢力との対決に向けられた。

 信濃守護に就いた長基のそうした行動の初見は、文和四年(正平十、一三五五)四月半ばに、北信濃のいずれかと推測される地に出兵して戦功をあげた合戦においてであった。合戦は、当時、尊氏と反目して南朝方に属していた上杉憲顕の長子憲将(のりまさ)が、越後国顕法寺(けんぽうじ)(新潟県中頸城郡吉川町)、柿崎(かきざき)(同郡柿崎町)の両城における幕府軍との同年三、四月の戦いに敗退したあと、日をおかずに北信濃方面に分けいり、滋野氏一族の禰津宗貞らとともに守護長基の軍との戦闘におよんだものであった。ついで同四年の八月中旬にいたり、坂西(ばんざい)・赤沢氏らの小笠原氏一族を主力とする府中勢を率いた長基は、諏訪氏一族、下社金刺(かなさし)氏一族、安曇郡の仁科(にしな)氏らを結集した宗良親王と、筑摩郡桔梗(ききょう)ヶ原(塩尻市)において対戦した。合戦には、親王方に戸隠別当系と思われる水内郡の栗田氏、同郡東条(ひがしじょう)荘の三輪氏および高井郡矢島郷(小布施町)に居住した須田氏一族の入氏ら北信濃の諸領主が加わり、「国中騒動」(『信史』⑥『園太暦(えんたいりゃく)』)となる規模で戦われた。この合戦のためにこの年の朝廷恒例の儀式である駒牽(こまびき)は、信濃からの貢馬(くめ)の到着が遅滞したために延期をみている。

 桔梗ケ原合戦は、諏訪上社権祝(ごんのほうり)の矢島正忠が戦死をとげるほどの激戦であった。合戦は親王方の敗北に終わり、以後、親王は根拠地の伊那郡大河原に逼塞(ひっそく)するにいたった。延文五年(正平十五、一三六〇)、親王は南朝方の京都進攻にさいしての出兵要請にもこたえられなかったように、桔梗ヶ原における戦いを境にして、親王と親王に加担する信濃南朝方の勢力は衰退の一途(いっと)をたどった。しかし、この合戦をもって再起にかける親王の働きかけが、まったく終わったわけではなかった。貞治(じょうじ)年間(一三六二~六八)半ば以降、鎌倉府による信濃の南朝方制圧が本格的に開始された時点にあっても、消極的ながらも親王の反攻活動はつづけられている。

 越えて貞治四年(正平二十、一三六五)の年末と翌五年正月に、守護の長基は筑摩郡塩尻郷内金井(塩尻市)付近で諏訪上社大祝諏訪直頼と戦って勝利を収めることがあった。正月の戦闘には、直頼方に更級郡の村上兵庫助、同郡牧城の香坂氏や、水内郡春日郷の戸屋(とや)城(七二会)を拠点とした春日氏および同郡太田荘内長沼郷(長沼)地頭の長沼島津氏ら、北信濃の諸領主が「宮方」(『信史』⑥『守矢満実書留』)として編成されていた。信濃における旧直義派にして宮方勢力の中心であった諏訪氏と、同氏と結ぶ信濃の南朝方勢力は、守護の長基によって軍事的に制圧されたのである。

 この貞治年間の合戦が一段落したころから、長基の守護職にもとづく活動を示す事績は見受けられなくなる。かわって関東一方管領となった上杉朝房(ともふさ)が、信濃守護に在職したことを示す徴証(ちょうしょう)が確認されるようになる。長基は鎌倉府による信濃国統轄を背景にした朝房の前に、信濃守護職を失うことになったのである。わずかに長基には、応安三年(正平二十五、一三七〇)四月に、直接室町将軍家である「公方の御左右(そう)」によって、市河頼房(よりふさ)に水内郡常岩御牧南条五ヵ村(飯山市)を兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)として預け置いたように(『信史』⑥『市河文書』)、将軍家と直結することにより、一定地域における軍事指揮の権限を保持して守護に準ずるような活動がみられたにすぎなくなった。


写真8 小笠原長基宛行状 (市河文書)