上杉朝房が信濃守護を離任した永和三年(天授三、一三七七)ころに、信濃国は鎌倉府の管轄から、ふたたび幕府の統治するところとなった。このあいだの応安六年(文中(ぶんちゅう)二、一三七三)六月、国守代替わりにあたって公領(こうりょう)の奥春近(おくはるちか)領高井郡志久見郷で実施された国検目録の調進者は、鎌倉期の目代(もくだい)にかわって「守護使」が勤めており(『信史』⑥『市河文書』)、守護の支配権力は国衙(こくが)機構内に食いこむ広がりようをみせている。室町幕府権力を信濃国内に執行する立場にいた守護は、国衙機構をその支配のうちに取りこんで、領域支配展開のための手がかりを得るにいたったといえよう。至徳(しとく)元年(元中(げんちゅう)元、二八四)、こうした状況にあった当国の守護職に斯波義種(しばよしたね)が補任(ぶにん)をうけ、以後、応永六年(一三九九)までのあいだに義種の兄義将(よしまさ(ゆき))、甥(おい)の義重(よししげ)(義教)が順次就任した。
信濃守護に就いた斯波氏は、吉良(きら)氏とともに足利氏庶流のなかで特別な門地を占めた一家であった。わけても斯波義将は康暦(こうりゃく)元年(天授五、一三七九)、将軍足利義満のために尽力していた管領の細川頼之(ほそかわよりゆき)を、土岐(とき)・京極(きょうごく)氏らの守護たちと結んで失脚させた「康暦の政変」以降、長く幕府管領職に在職して室町幕政に重きをなしたことで知られている。足利幕府の有力な一門が、信濃の守護に任じられたのである。
室町期の守護は在京を原則としていたことから、守護の斯波義種は管国信濃の経営のために、二宮氏泰(にのみやうじやす)を守護代に任命した。氏泰はその子種氏(たねうじ)を、いわゆる「又守護代」にして守護所の平芝におき、支配の実務にあたらせた。信濃を実質上経営することになった守護代二宮氏の統治は、きわめて強圧的なものであった。そうしたようすは二宮氏泰が守護代の任に就いた早々の至徳元年、京都東福寺(とうふくじ)塔院の海蔵院(かいぞういん)が暦応年間(一三三八~四二)以来所持していた水内郡太田(おおた)荘(若槻・長沼から豊野町一帯)領家職(りょうけしき)の年貢を横奪(おうだつ)した事態のうちにうかがうことができる。海蔵院では、あらかじめ守護代の二宮氏に「点心(てんじん)引物代」、「蝋燭(ろうそく)代」などの名目で一〇貫文を贈って、同荘の領家職年貢分を確保しようと取りきめていた。しかし、至徳元年に海蔵院がじっさいに太田荘から収納できた年貢は、予定していた一〇〇貫文のうち約半分の五八貫文にすぎず、残りの四二貫文は、それを負担することになっていた同荘内の南郷(豊野町)が「押領(おうりょう)」されたことにより、未収の状態となっていた。この南郷を押領したのは、守護代の二宮氏泰その人であった(『信史』⑦『海蔵院文書』)。
この守護代二宮氏が押領にかかわった南郷をふくむ太田荘は、南北朝期ころには、おおよそ島津氏本宗家が南郷に、伊作(いさく)島津氏が神代(かじろ)(豊野町)・津野(つの)(長沼)・小島(こじま)(柳原)などの各郷に、金沢称名寺(しょうみょうじ)(横浜市)が石村・大倉の両郷(豊野町)に、それぞれ地頭職をもっていた。こうしたなかで南郷を領知していた島津宗久(むねひさ)は、当地に代官を派遣して支配をおこない、暦応三年(延元五、一三四〇)に宗久が死没したのちも、宗久の代官らは現小布施町の松川あたりまで支配勢力を伸ばしていた高梨経頼(つねより)・永高父子らと語らって、称名寺の支配する大倉郷を「濫妨(らんぼう)」し、これを停止させようとした守護の遵行をも無視するという姿勢をみせている(『金沢文庫古文書』)。太田荘周辺では、国人領主が守護の支配に服従することなく、自立的な領主支配を伸展させるために地縁的な結合関係が形づくられていたのである。
至徳三年(元中三、一三八六)七月、守護代の二宮氏泰は、守護の命令にしたがわない高井郡小菅(こすげ)荘(飯山市)内に鎮座(ちんざ)する小菅社の別当を解任しようとした。この小菅荘には観応年間(一三五〇~五二)ころから高梨氏の勢力が浸透し、小菅社の別当寺にして修験(しゅげん)の道場でもあった小菅寺(元隆寺(げんりゅうじ))の一山組織も同氏が押さえるまでになっていた。神社別当が守護の支配に抵抗した背景には、反守護の立場をとる高梨氏の思惑が介在し、それが強く反映されてのことであったとみることができよう。このように守護の支配にたいし相対的に独自性を保持する北信濃の国人らは、小菅社の別当解任問題が生じた翌至徳四年(元中四、一三八七)、強圧的な姿勢をとる守護代二宮氏を介して分国支配をすすめる守護斯波氏とのあいだに抗争を生むにいたった。
至徳四年四月、村上頼国(よりくに)・小笠原長基・高梨朝高(ともたか)・長沼(島津)太郎らの国人は、あまたの軍勢を率いて善光寺に「義兵を捧(ささ)げ」、閏(うるう)五月すえに守護所の平芝を攻撃した。このとき守護方に属していた市河頼房は「又守護代」の二宮種氏にしたがって、これを平芝東麓の漆田(うるしだ)(中御所付近)に防戦した(以上『信史』⑦『市河文書』)。この守護方を攻撃した国人武士のうち、元守護の小笠原長基を除くほかの国人は、村上頼国が更級・埴科の両郡を、称名寺領の大倉郷押妨に関与した高梨経頼の孫にあたる朝高は高井郡椽原(くぬぎはら)荘(小布施町)を、それぞれ主要な領主支配地としていた。また、長沼太郎を名乗る島津国忠(くにただ)は、太田荘内長沼郷(長沼)に領主支配を強化するなかで伊作島津氏から分立し、長沼郷を名字の地とするほどに成長をとげた領主であった。いずれも北信濃に勢力基盤をもつ、有力な国人たちにほかならなかった。
元守護の小笠原長基がこの反守護の戦列に加わったのは、政治的な利害関係によるものであった。長基は信濃が鎌倉府の管轄下にあった時期、当国守護職を上杉朝房にゆずった以降は直接室町将軍家に服属していた。しかし、長基には信濃国が幕府の統治下にもどったあとも、守護職は斯波氏にあたえられて復職できなかったという不満が退蔵(たいぞう)されていたのである。
国人らの武力反抗に直面した幕府は、至徳四年六月ころ斯波義種にかえて、兄で管領職にあった義将を信濃守護職に任命した。義将は、当時、斯波氏の守護分国に組み入れられたばかりの加賀(かが)国に、それまで信濃の経営にあたっていた弟の義種を守護に、二宮種氏を守護代として配転し、信濃には種氏の父である当国守護代の二宮氏泰を再入部させた。
二宮氏泰は、北陸道をへて越後(えちご)国糸井川(新潟県糸魚川市)にいたり、当地で市河初房の出迎えをうけた。信濃に入国した氏泰は市河氏らを引き連れて、水内郡常岩中条(飯山市)に高梨・村上氏の与党を討ち、八月すえには氏泰が拠点とした善光寺横山(城山公園)において村上頼国勢と戦いを交えた。横山の合戦では、守護代方の頼房はみずから太刀打ちをして乗馬を切られたほか、若党の難波左衛門二郎が討ち死にし、その弟の三郎以下数十人が戦傷を負うほどに激しい攻防戦が展開された。この合戦は、埴科郡生仁(なまに)城(更埴市)によった村上勢が没落するまで継続された。
四月に始まった北信濃の国人による守護にたいする反抗にはきびしいものがあったが、守護代の氏泰はひとまず武力によって鎮圧することができた。これ以後、斯波氏一門が守護職を勤めた応永六年までのあいだ、国人による反守護の闘争は起きていない。幕府管領兼信濃守護斯波義将-守護代二宮氏泰をもって構成されるラインが手がけた、所領の維持・保全を願う国人とのあいたに「先例」にもとづく国人所領の知行支配権を認めるという(『信史』⑦『今清水文書』)、政略的な妥協策が継続してとられた結果によるものであった。