守護所の移動と善光寺

697 ~ 701

南北朝時代の前半、信濃の守護所は建武新政府から守護に補任された小笠原貞宗(さだむね)によって、埴科郡船山(ふなやま)郷(更埴市・戸倉町)内に設けられていた。この船山郷は鎌倉末期、信濃守護であった北条重時(しげとき)の曾孫にあたる北条基時(もととき)が、一方地頭職(いっぽうじとうしき)を所持していた地であった。貞宗は鎌倉幕府の滅亡後、こうした由緒(ゆいしょ)を考えて、建武新政府の没官(もっかん)領とされたこの船山郷に守護所を設置したものと思われる。

 船山郷内に守護所がおかれていたことは、建武(けんむ)二年(一三三五)三月に水内郡常岩北条で北条氏与党が挙兵したおりに、市河助房(すけふさ)以下の市河氏一族が、船山に駐留していた守護小笠原貞宗軍のもとに参陣していること。また、同年七月の中先代(なかせんだい)の乱にさいして、高井郡長田(ながたの)(保科(ほしな))御厨(みくりや)(若穂)の保科弥三郎と、更級郡四宮(しのみや)荘(篠ノ井塩崎)の四宮左衛門太郎らが最初に襲撃し、貞宗の軍に加わっていた市河氏らとの合戦におよんだのは、船山郷内青沼の地であったことなどの諸徴証(ちょうしょう)のうちにうかがうことができる。


写真5 長田御厨の神明社と伝えられる長田神社 (若穂保科)

 さらに観応の擾乱(じょうらん)中の観応二年(正平六、一三五一)正月、足利直義(ただよし)方の諏訪直頼(なおより)のよびかけに応じた市河氏一族の泰房(やすふさ)は、当時、反直義方であった信濃守護の小笠原政長(まさなが)が拠点地としていた「船山郷内守護の館(やかた)」を放火することがあった(『信史』⑥『市河文書』)。この焼き討ちされた守護の居館こそは、守護小笠原氏が信濃一国支配の拠点として、船山郷内に設けた守護の居住する守護所であったと解することができよう。このように船山郷内には守護小笠原氏に関係して守護の館が設けられ、小笠原氏はここを本拠にして東・北信一帯の統治に臨んでいたのである。

 この船山郷におかれていた守護所は、至徳四年(元中四、一三八七)ころまでには、水内郡の平芝に移転をみていたことが知られる。このことは同年閏五月すえに、守護斯波氏の支配に反発した村上頼国らの国人領主が、「守護所平芝」を襲撃したと記した市河頼房の軍忠状によって確認される(『信史』⑦『市河文書』)。しかし、平芝への守護所移転がいつ、いずれの守護のときにおこなわれたかについてははっきりとしていない。船山郷の守護所が守護小笠原氏によって設置されていたことを考えれば、同氏が信濃守護職を更迭(こうてつ)された前後ころが有力視されよう。

 そうした点で注目されるのは、先に取りあげた応安三年に作成された上遠野政行の軍忠状である。それには平芝の守護所を考えるうえで、注意をひく記述が二点ほど認められる。ひとつは、関東管領兼信濃守護の上杉朝房が派遣した弟の朝宗が、国内の南朝勢力と連係した村上氏勢力に対抗するために、平芝に在陣していること。いまひとつは、信濃に出陣してきた朝房が最初に訪れた地は、この平芝とは旧裾花川をはさんで間近(まぢか)にある善光寺であったことなどである。このうち後者の朝房による善光寺参詣(さんけい)については、それが単なる寺参りであったとは思えないことである。前述したように善光寺は、至徳四年に村上氏らの国人領主が守護所の平芝を襲撃したおり、攻撃にさきだって「義兵を捧げ」たところであった。また、この時期よりあとの応永七年(一四〇〇)、守護の小笠原長秀(ながひで)が所務沙汰以下の国務を執行するにあたって、まず最初に打ち入った先は善光寺であったことである。

 このように善光寺は、政治・軍略上においてことの開始を広く明らかにし、おおやけに喧伝(けんでん)する場としてとらえられていたことが考えられる。それは善光寺門前に鎌倉時代以来国府の支庁である後庁(ごちょう)があり、善光寺近くの平芝に守護の居館、すなわち、守護所がおかれていたことが関係していたためと思われる。こうしたことなどから類推して、軍政上重要視されていた善光寺近辺の平芝に守護所が設置された時期は、上杉則房が善光寺を訪れた応安三年段階以前のことであったかと推測される。

 船山郷から移って平芝に守護所が設けられたのは、善光寺近くであることがなによりもの理由であったろうと考えられる。善光寺は鎌倉期以来、後庁があった政治の一中心地であったことに加えて、「三国一の霊場(れいじょう)にして、生身弥陀(しょうじんみだ)の浄土、日本国の津(つ)にして、門前に市をなす」と記されているように(『信史』⑦『大塔物語』)、衆生済度(しゅじょうさいど)を願う阿弥陀仏信仰のもとに発展をとげた門前町であったことである。信濃有数の都市域が形成された善光寺(町)は、人と物資の集散でにぎわう経済上の枢要(すうよう)地でもあった。この当時諸国の守護所の多くが、分国内における政治、経済上の要地とされていたところを掌握するために、国府の機能をうけついだ府中や港・津・宿駅等々に設けられていたとされていることからすれば、善光寺(町)周辺は守護所の設置にとってふさわしい諸条件を備えた格好(かっこう)の地であったということができよう。

 平芝の守護所が設置されていた地点は、これまで通称大黒山(だいこくやま)の山麓(さんろく)に求める説と、中御所とする説とが並立していて明確にされていない。平芝の地名は旭山東麓の平柴に比定(ひてい)されるが、この地は近世まで平柴台地足下の現小柴見地籍をふくむ範囲をさしていた。さらに現在、小柴見地区と長野の市街地とを隔(へだ)てている裾花川は、中世では現在の県庁付近から七瀬方面へ東流していたから、小柴見と、旧裾花川が形成した沖積低地の現中御所地籍とは、ほんらい地続きの関係にあったところである。至徳四年閏五月末に守護斯波氏の「又守護代」二宮種氏と村上氏勢とが合戦におよんだ漆田とは、この中御所の中世における呼称であり、南北朝中期ころには当地域内には地頭の屋敷も点在していた。

 右に述べた中御所から平柴台地の縁辺にかけての沖積低地一帯は、「善光寺表漆田原(うるしだはら)」(『信史』⑧『小笠原系図』)といわれた場所に相当するところであり、文安(ぶんあん)三(一四四六)年に、小笠原氏の家督相続をめぐって守護小笠原宗康(むねやす)と従兄弟(いとこ)の同持長(もちなが)とが交戦したところでもあった。この漆田原からみて台地上の位置にある現平柴地籍のうち、旭山東山腹の大黒山と小柴見の両地点には、いまも中世の山城跡をみることができる。

 以上のような地理的な諸景観を踏まえていえば、大黒山、小柴見の両山城は守護が軍事上の必要から築いた要害の城であり、守護が分国支配のための日常的な政務をとるために守護の居所(館)とした守護所は、低平地の漆田(中御所)付近に設けられていたと想定される。善光寺の南面方向に展開する漆田原と、その背後に立地する平柴台地の付近一帯は、まちがいなく信濃守護が一国支配のために管轄した政治、軍事上の根幹地域であったということができる。


図1 大黒山・小柴見両城跡の周辺一帯
(『長野』97号より一部補正して転載)