応永五年(一三九八)、小笠原長秀は将軍足利義満(よしみつ)から、安曇郡住吉(すみよし)荘(南安曇郡豊科町・三郷(みさと)村一帯)と春近(はるちか)領の返付をうけた。両所領は信濃守護職に付随する守護領であったから、このことは長秀が信濃守護に就任する前触れであることを意味していた。しかもその数ヵ月前、幕府管領で当国守護を兼ねていた斯波義将が、管領職を義満の意向によって畠山基国に改替(かいたい)されたことは、長秀の信濃守護職就任への機会を大きくした。
永徳三年(弘和三、一三八三)に父の長基から小笠原氏の惣領職以下をゆずられた長秀は、明徳(めいとく)三年(元中九、一三九二)、将軍義満の開創した京都相国(しょうこく)寺の落慶供養(らっけいくよう)にさいして、弟の政康(まさやす)ともども随兵役の勤仕を命じられた。随兵役は守護か守護に準ずる有力者が勤めたことを考えれば、将軍義満と小笠原氏とのあいだには親密な主従関係が形成されていたようすがうかがわれる。こうした義満および室町幕政の動きなどを背景にして、長秀は応永六年(一三九九)の十月以前に信濃守護に補任された。
この小笠原長秀の信濃守護就任にたいして、水内郡太田荘内長沼郷を本拠とする島津国忠は、反抗の態度をあらわにした。応永六年十月下旬、この国忠と、長秀が入部させた小笠原氏一門の守護代赤沢秀国(ひでくに)、櫛置(くしき)(木)清忠(きよただ)とのあいだに衝突が生じた。戦いには、守護代方に高井郡志久見郷地頭の市河頼房が加わり、島津氏の本領地である長沼郷に近い水内郡石渡(いしわた)(朝陽石渡)で戦われた。
合戦のあった石渡は、明徳三年の高梨朝高言上状案に明らかなように、高梨氏一族の高梨与一が知行した水内郡東条(ひがしじょう)荘内石渡部郷に比定される地である。与一はこのほかに、石渡部郷に近接する東条荘内の堀(朝陽南堀・北堀)、尾張部(朝陽北尾張部・古牧西尾張部)、高岡(古牧東和田)などの諸郷も知行していた。このうち高岡郷は、高梨氏惣領家(そうりょうけ)の朝高が知行する所領地でもあった。これら高梨氏の惣領家と一族とが知行する所領のあった一帯には、高梨氏がその管理・維持に影響をもったとされる六ヵ郷用水(三条待居堰)が設けられ、同用水によって灌漑(かんがい)される農耕地が広がっていた。南北朝期以降、高梨氏が水内郡の南半に領主制を発展させるうえで、重要な地域であったところである。
このような高梨氏一族の領主支配地にふくまれる石渡部郷周辺に、島津氏制圧のために守護方の軍事侵攻がおこなわれたのであってみれば、高梨氏はただ拱手傍観(きょうしゅぼうかん)しているわけにはいかなかった。高梨氏一族の知行地に軍勢を入れた守護方にたいして同氏の抵抗があったことは、翌応永七年(一四〇〇)の初頭、高梨氏の一類がよったと推測される高井郡烏帽子形(えぼしがた)城(木島平村)を、守護方の市河頼房・義房(よしふさ)父子が攻撃した事実によって知られる。
石渡の合戦がおこなわれた前後、周防(すおう)・長門(ながと)二ヵ国(山口県)のほかに四ヵ国の守護を兼ね。対明(みん)・朝鮮貿易による富(とみ)を蓄積して強勢を誇った大内義弘(おおうちよしひろ)が、有力守護の抑圧・統制策をすすめる足利義満の処遇に不満をいだき、鎌倉御所の足利満兼(みつかね)と通じて和泉(いずみ)国堺浜(さかいはま)(大阪府堺市)に反乱を起こした。この事態に、当時、本拠地の伊那郡伊賀良(いがら)荘(飯田市一帯)に在住していた守護長秀も、義満から義弘討伐の命令をうけた。応永六年十一月上旬、長秀は軍勢催促に応じた高井郡中野郷(中野市)の中野頼兼を引き連れて上洛し、管領畠山基国の指揮のもとに対義弘の攻撃に参加した。「応永の乱」と通称されるこの乱は、十二月下旬にいたって義弘が敗死し、弟の弘茂(ひろもち)も義満の前に降伏してその幕を閉じた。
応永の乱後、守護の長秀は信濃国へ再入部して本格的に分国経営をおこなうために、硬軟両様からなる下工作を執りおこなった。そのひとつは、石渡の合戦で長秀に抵抗した島津氏への対策である。応永七年三月、長秀は幕府から、東福寺塔院の海蔵院がもつ水内郡太田荘の領家職にたいする押領人を排除して、海蔵院雑掌による所務ができるよう取りはからえとの命令をうけた。長秀は信濃再入部後の同年七月すえに、小笠原古米入道(こめにゅうどう)を介して島津氏にたいし、領家職を海蔵院雑掌に渡すよう指示している。この打渡(うちわた)しの対象となった島津氏とは、この前年に石渡で守護の長秀方と鋭く対立した島津国忠であった。守護の長秀は幕府公権を背景に、太田荘領家職を押領する島津氏をおさえて、守護支配権の枠内に封じこめようとしたのである。
さらにこのころ高梨朝高は、島津氏が海蔵院の領家職を押領した太田荘内に立地する大倉郷や、島津国忠が領主支配を強めていた同荘内長沼郷にふくまれる上長沼(長沼)の地などを領知していたことである。こうした高梨氏の領主支配地の位置関係に注目してみれば、長秀が島津氏にとった施策は、同時に高梨氏の反守護的な行動を一時期牽制(けんせい)し、制約する働きをあわせもっていたと考えられる。
この反面で長秀は、守護方のために尽力した市河氏などには厚遇を投げかけている。市河氏の場合、同氏は長秀の信濃守護就任以降、石渡や烏帽子形城に反守護方勢力と対戦したほか、応永の乱にさいしては長秀の軍勢催促に応ずるという働きぶりをみせていた。長秀はこうした市河氏の忠節にたいして応永七年夏、市河頼房、義房の父子に、水内郡若槻(わかつき)新荘加佐(かさ)郷(豊田村替佐)内庶子(そし)分・同静妻(しずま)郷内北蓮(きたはちす)分(飯山市蓮)、高井郡中野郷内西条村(中野市西条)などの所領を宛行(あてが)い、また、安堵するところがあった。長秀は守護に与(くみ)する国人領主には所領の給与や安堵をとおして結束をはかり、被官化をすすめる方策をとっていたのである。
こうして信濃を経営するための下準備をととのえた小笠原長秀は、応永七年七月三日に京都をたち、同二十一日、小笠原氏の有力な一門で、佐久郡大井荘(佐久市、南・北佐久郡一帯)を領主地としていた大井光矩(みつのり)の岩村田館(佐久市岩村田)に入った。光矩の父光長は、かつて長秀の祖父政長が信濃守護であった貞和五年(正平四、一三四九)から翌年にかけて、太田荘内大倉郷地頭職の領有をめぐる争いなどに、政長の守護代として所務の遵行にたずさわった経歴を有していた。長秀が京都から大井光矩のもとに直行したのは、大井氏が守護代であったころにつちかった信濃、とくに北信濃経営についての判断を得る必要があったためと思われる。