大塔合戦は、守護小笠原長秀の一国公権にもとづく強引な分国支配に反発した、主に北信濃の最有力の国人である村上氏と、同氏に同調した東・北信の国人領主が結合して引き起こした反守護的な側面の濃厚な「国一揆」であった。こうした内容からなる性格の戦いであったことから、市域内に支配地を有する領主らの参戦も見受けられた。
とりわけて合戦参加の諸武士団中最大の八〇〇余騎を動員し、村上氏とならんで「国一揆」の中核となった大文字一揆の構成員のなかには、表1に明らかなように、市域内に基盤所領をおく中小の国人領主が介在していた。当一揆は、観応の擾乱前後に足利直義方に与した領主らが対小笠原氏を目的に、身分的に対等な組織として結成され、ある程度恒常的な機能を果たしつつ、永享(えいきょう)年間(一四二九~四一)のはじめころまで存続したとされている。
このような特性を帯する一揆成員の所領は、地域的には善光寺と府中(松本市)方面とを結ぶ犀川流域に分布していた。その意味からすれば大文字一揆は、犀川沿い一帯に形成された地域的な連合体でもあったといえよう。このうち市域関係の武士としては、栗田氏が裾花川下流域に栗田城を構え、平芝の守護所と対峙(たいじ)していた。窪寺氏は安茂里の丘陵地東南の山麓にあって、善光寺から仁科(大町市)方面にいたる道筋を、小市(こいち)氏は犀川の善光寺平への開口部にある渡河地点を、それぞれ押さえていた。一五世紀後半の応仁・文明の乱時にこの窪寺・小市を支配下に入れる小田切氏は、犀川が善光寺平に流入する犀川口に吉窪(よしくぼ)城(小田切塩生(しょうぶ))を築いて、ふもとの城下を通る善光寺道を管轄していた。落合氏は裾花渓谷(けいこく)の山間部一帯を領知して、善光寺から飯綱・戸隠方面への諸道を掌握していた。さらに南方に犀川を臨む戸屋(とや)城(七二会)に居を据えた春日氏は、仁科や府中へ抜ける道を支配していた。
このように市域の国人層をふくむ大文字一揆は、犀川流域を押さえることにより犀川沿い一帯の水陸交通路を掌握し、当地の流通と深くかかわっていたことが推測される。一揆を構成する領主らが中小規模の国人領主であっただけに、狭小な所領経済を補ううえで犀川の交通・流通体系を把握することは、国人層の領域支配の維持や拡大にとって重要なことであった。流通経済を取り入れて成りたつこうした一揆構成員の弱小な領主支配の構造は、一揆が大塔合戦において、「代々の支証(ししょう)を用(もち)ひず」に既得権益をも否認しかねない守護長秀の統治にたいしてはげしく抵抗した一要因ともなっていた。その反面、一揆は幕府にたいしては一揆成員の忠節を強調して、幕府権力を尊重する姿勢をとっていた(以上『信史』⑦『丸山文庫文書』)。一揆は守護長秀を排除して、幕府に直結することを指向していたのである。
一揆がとったこの動きは、幕府が守護統制のために各種の特権を付与して庇護(ひご)を加えていた直勤(じっきん)御家人(奉公衆)のように処遇されることを、期待したものにほかならない。この視点からすれば一揆は、直勤御家人と同じように幕府権力の保護を得、そのもとにおいて守護長秀の強圧的な支配にたいして抵抗を試み、自己の弱小な領主支配を守ろうとする意識を働かせるところがあったということができよう。