小笠原政康の復権

723 ~ 725

信濃は鎌倉府にたいする政治・軍事上の一拠点国として幕府料国とされたが、このことは鎌倉府からの政治的な影響をうけることをも意味していた。そうした影響は信濃が幕府料国下でしばしの平静さを保っていた応永二十三年(一四一六)、犬懸家上杉禅秀(ぜんしゅう)(氏憲(うじのり))の乱において表面化した。事件は前年の二十二年に、鎌倉御所足利持氏が関東管領氏憲の家人(けにん)である越幡(おばた)六郎の所領を没収した一件をきっかけにして、管領職を罷免(ひめん)された氏憲が御所の持氏に反感をいだき、後任の山内家上杉憲基(のりもと)とも対立したところに端(たん)を発していた。同二十三年十月はじめ、氏憲は持氏の叔父足利満隆(みつたか)を擁(よう)して挙兵したが、幕府の持氏救援の方針が出されるにおよび、翌二十四年正月に氏憲の一類が自害したことによって終息をみた。

 この「禅秀の乱」のさなか、小笠原政康は将軍足利義持(よしもち)から本知行地を安堵され、応永十二年に兄長秀からゆずられていた本領や恩賞地以下の全所領地を領有することができた。さらに乱の終結直後、政康は義持から戦功を賞されるいっぽう、信濃と同様に鎌倉府の支配下分国の周辺に位置した駿河(するが)の守護今川範政(のりまさ)とともに、幕府の鎌倉府対策に協力するように指示をうけている。ついで応永二十五、六年にかけて将軍義持は政康に、鎌倉御所持氏を牽制するために、甲斐守護にした武田信元(のぶもと)の甲斐国領治を支援するよう下命(かめい)した。このとき義持は、ほんらい将軍家料所であり、信濃守護職にともなう特性を有した安曇郡住吉荘や春近領を、この当時これを知行していた大文字一揆の反対をおさえて政康に還付している。幕府の政康に寄せる期待のあらわれとみることができよう。

 応永三十年にいたり鎌倉御所持氏は、禅秀の乱後に幕府が幕府分国外に組織した京都扶持衆である北関東の山入(やまいり)・小栗(おぐり)・宇都宮氏らを討伐することがあった。幕府はこうした持氏を討つために、信濃にたいしては和泉(いずみ)半国守護にして当国の幕府代官であった細川持有(もちあり)と政康の二人に出陣を命じた。政康は同年すえに、臼井(うすい)(碓氷)峠を越えて上州へ進出している。この事件は持氏が幕府に謝罪して和解をみたが、政康は将軍義持からこのおりの功績を賞され、このころ御料所となっていた埴科郡春近領内の船山郷を宛て行われている。

 このような幕府と鎌倉府との政治的緊張状況のなかで、政康は幕府権力に服して軍事指揮者としての手腕を示したことにより、兄長秀の守護職更迭によって喪失(そうしつ)していた守護領としての性格をもつ春近領や住吉荘を、徐々(じょじょ)に取りもどすことができた。幕府領国下では御料所化されていたこれらの所領が政康に返付されたことにともない、応永三十二年すえ、政康は信濃守護職の補任をうけた。翌年、政康はそれまで幕府料国であった信濃に、兄長秀の入国のときとは相違して、国人の反抗をうけることもなく平穏裡(へいおんり)に入部することができた。