応永三十五年(一四二八)正月、小笠原政康を信濃守護職に補任した前将軍の足利義持が死去した。義持の兄弟四人のなかから籤(くじ)引きによって選ばれた青蓮院門跡義円(しょうれんいんもんぜきぎえん)が、還俗(げんぞく)して義亘(よしのぶ)(翌年、将軍職就任と同時に義教(よしのり)と改名)と名乗り、あとを継いだ。政康はこの代替わりにあたって、義宣から改めて春近領一円を安堵された。
将軍職への就任を期待していた鎌倉御所の足利持氏は、義教が継嗣(けいし)に決定したことに不満をいだいたことから幕府と対立し、鎌倉府と幕府とのあいだの軋轢(あつれき)は深刻さを増した。正長(しょうちょう)元年十月、持氏は越後守護代長尾邦景(ながおくにかげ)らを誘って、幕府に反抗を企(くわだ)てた。この事態に幕府は、守護の政康を信濃に下向させて、鎌倉府の動きに備えるよう命じている。
京・鎌倉の対立が激化する情勢のなかで、政康の信濃統治はすすめられた。政康が重きをおいた分国統治の地域は、「サク(佐久)郡ヲトヲリテ、ウスイタウケヘモ、マタ上野国ヘモ罷(まか)リ通ル」(『満済准后(まんさいじゅごう)日記』)と、幕府も関東にたいする要衝(ようしょう)と認識していた佐久地方であった。鎌倉府の支配分国である上野国に接する佐久には御所持氏の懐柔策(かいじゅうさく)が浸透し、また、大塔合戦のさいにみられたように、反小笠原氏の立場をとる村上・禰津・海野氏らの国人層が勢威を広げていたところでもあった。
永享七年(一四三五)、小県郡の依田氏一族と推定される芦田下野守(あしだしもつけのかみ)が佐久郡に進出して、大井持光(もちみつ)の所領と隣接する芦田(北佐久郡立科町)に要害を構えたことにより、芦田、大井の両氏問に紛争が生じた。幕府は鎌倉府への対応上からも、この紛争の解決は急務であると判断し、政康にたいし越後守護代長尾邦景と合力して大井氏を援助するよう指示をくだした。とりあえずのところ幕府は政康に両者の和睦(わぼく)をはからせたが、けっきょくは守護小笠原氏と大井氏の連携のもとに芦田氏の征討が開始された。翌永享八年三月、政康は海野・禰津氏らの支援を得て執拗(しつよう)に抵抗をつづける芦田氏を制圧するために、禰津氏の本領に侵攻して小県郡の芝生田(しぼうだ)(小諸市)、別府(べっぷ)(小県郡東部町)の両城を攻め落とし、海野氏をも攻略した。支援勢力が敗退して孤立した芦田氏は七月ころまでには降伏し、以後、大井氏に服属することとなった。
政康はまた、同じころ所領の境目争いをしていた村上頼清(よりきよ)とも対峙(たいじ)した(『喜連川判鑑(きつれがわはんかがみ)』。抗争の焦点となった所領問題は、応永三十年(一四二三)に政康が足利義持からあたえられた埴科郡春近領内船山郷が、村上氏の中心的な支配領域である更級・埴科両郡の地域内に位置していたことに由来していた。村上氏としては、支配基盤とする領域内に守護小笠原氏の所領が形成されたのであってみれば、反抗を余儀ないものとせざるを得なかったように思われる。頼清は、将軍権力を背景に領国支配をすすめる守護小笠原政康に対抗するために、鎌倉御所足利持氏のもとへ「家子」の布施伊豆守を遣わして助力を求めた(『永享記』)。この布施氏は、大塔合戦時に守護小笠原長秀に属した布施高田郷(篠ノ井)を本拠地とする布施兵庫助とは、別系統の地侍である。
このとき村上頼清か足利持氏を頼(たの)みとしたのは、村上氏と鎌倉御所とのあいだに、これ以前から緊密な関係が形成されていたことによっていた。鎌倉御所足利氏満のころまでに、村上氏一族の屋代氏のなかには常陸国東条(とうじょう)荘内社(やしろ)村(茨城県龍ヶ崎市)を本領地にして、鎌倉府奉公衆として出仕していたものがいた。さらに同じ氏満の代に、氏満みずから金沢称名寺の訴訟にあたるものとして、村上正貞なる人物を指名したことがあった(以上『円覚寺文書』、『金沢文庫古文書』など)。これらのことなどから、氏満のころにはすでに鎌倉御所と村上氏双方のあいたには、後年、「関東御扶持(ふち)ノ故(ゆえ)」(『喜連川判鑑』)といわれたような親密な関係がつちかわれていたことが想定される。
持氏は頼清の救援要請にこたえて、桃井(もものい)憲義以下を加勢に派遣しようとした。これにたいして関東管領上杉憲実(のりざね)は、「信州は京都の御分国也、小笠原は彼の守護人、京都の御家人也、彼を御退治(たいじ)、京都への御不義たるべし」(『永享記』)と、持氏を強くいさめて持氏の派兵を断念させた。現実の政治情勢を視野に入れた憲実の持氏にたいする諫止(かんし)によって、鎌倉府からの援軍を断たれた頼清は守護政康と交戦する手立てを失った。永享九年(一四三七)八月、降伏した頼清は上洛し、直接将軍義教に謁(えつ)して恭順(きょうじゅん)の態度をとった。こうして北信濃の最有力な国人領主である村上氏が幕府に帰順したことにより、小笠原政康は信濃の国人層の多くを守護職の権限にもとづく指揮統制下に入れて、分国支配を展開する体制をととのえることができたのである。