鎌倉府の紛擾(ふんじょう)と市域の武士

728 ~ 734

信濃の政情が安定をみたのとは裏腹に、鎌倉府部内では京・鎌倉間の修好につとめた管領の上杉憲実と、御所足利持氏との関係はしだいに険悪なものとなっていった。永享十年(一四三八)八月、持氏と不和になった憲実が鎌倉を出て分国の上野に退去すると、持氏は憲実追討の軍を起こした。憲実の救援要請をうけた幕府は、禅秀の乱以降鎌倉府に備える役割を負わせていた信濃・駿河・甲斐などの諸国に、軍勢の発向をうながした。守護の小笠原政康は幕府方連合軍の一員として信濃国内の国人層を統率し、鎌倉に向けて出陣した。幕府軍の攻勢と、鎌倉の留守居役をしていた三浦時高(ときたか)や武蔵の中小国人層の寝返りなどによって劣勢となった持氏は降伏し、翌年二月、軟禁(なんきん)されていた鎌倉の永安寺(ようあんじ)に自害した。

 この「永享の乱」によって、足利基氏から四代九〇年のあいだつづいた鎌倉御所は、いったんほろび去ることになった。このとき持氏の遺児安王丸(いじやすおうまる)・春王丸(はるおうまる)の兄弟は、常陸国の行方(なめがた)、鹿島(かしま)方面へとのがれた。また、従来その幼名を永寿王丸(えいじゅおうまる)とされていたが、近年それが万寿王丸と考定されたすえの子は、佐久郡の大井持光によって同氏が外護(げご)する安養寺(あんようじ)(佐久市安原)にかくまわれ、当寺において養育された(『佐久市志』歴史編(二))。

 永享十二年(一四四〇)四月、永享の乱の余波ともいうべき「結城(ゆうき)合戦」が引きおこされた。安王丸兄弟の懇請(こんせい)を入れた下総の結城氏朝(うじとも)は、御所持氏の滅亡後、関東の実権を全面的に掌握した管領上杉憲実の支配に不満をもつ北関東の諸士らを結集して、結城城(茨城県結城市)に兵をあげた。幕府は憲実の弟上杉清方(きよかた)を総大将とし、動員した束海道諸国、武蔵・上野の一揆、越後・信濃の軍勢からなる都合(つごう)数万騎を編成して、結城城の攻略に着手した。信濃守護の政康は信濃勢三〇〇〇余騎を統率し(『結城戦場物語』)、将軍義教からは幕府軍の陣中奉行として出陣の諸将を下知(げち)する権限をあたえられた。一年余の攻囲をへた嘉吉(かきつ)元年(一四四一)四月、幕府軍の総攻撃によって結城城は落城した。結城氏朝は自害し、氏朝が擁立していた安王丸・春王丸の兄弟は捕らえられ、京都に送られる途中、美濃(みの)国垂井(たるい)宿(岐阜県不破郡垂井町)の金蓮寺(こんれんじ)において斬殺(ざんさつ)された。

 この結城合戦で幕府軍の陣中奉行に任じられた政康は、動員した信濃国中の国人や一部被官化していた武士らを三〇番に編成し、「一日一夜」(『信史』⑧『笠系大成附録』)交代で陣中の警固と矢倉の番を勤めさせた。そのために作成された『結城陣番帳』の氏名次第は、表2のように整理される。番編成をとるところからみて、守護政康は統率した信濃勢三〇〇〇余騎を、各番均等に一〇〇騎前後となるように配置したものと考えられる。


表2『結城陣番帳』記載の国人領主

 三〇番のうち、一番から一三番までは他氏を交えずに単独で、残りの一七番は複数の領主がひとつの番を共同して勤番するようになっている。前者の単独による番編成は、政康の嫡男小笠原宗康が勤める一番を除いてそのほとんどが東・北信地域の国人たちであり、大塔合戦のさいには反守護小笠原氏として「国一揆」を結成した主要な領主層である。一五番の落合・小田切・窪寺の諸氏は大文字一揆の成員であったことから、これを一個の武士団とみなせば、一三番までに編成された領主層と同様に、反守護小笠原氏系武士の単独勤番であったととらえることができよう。

 一家が単独でひとつの番を勤める反小笠原氏の性格を帯していたこれらの領主は、一見したところ家格を重んじられた有力な国人として優遇されているように思われるが、じっさいのところは単独による過重な軍役負担を強(し)いられていたことを意味している。守護政康の信濃支配における東・北信の位置づけが、どのようなものであったかを知ることができる。これにたいして、後者の複数による勤番編成をとる領主層はおおむね地域的に編成され、一七番から二〇番には府中周辺の国人、二一番から二四番に伊那郡方面の国人、残る二五番から三〇番にかけては東・北信地域の国人がそれぞれ配置されている。これらの番に編成された領主は中小規模以下の国人層が多く、なかにはすでに小笠原氏の被官化していた領主もいた。こうした傾向は、とくに府中周辺や伊那郡などの中・南信地域の国人領主のうちに認められる。

 ちなみに、応永七年(一四〇〇)の大塔合戦のさい守護長秀の主力軍勢となっていたのは、小笠原氏一族と、二三、二四番にみられる伊那郡の春近領や郡戸(ごうど)荘(飯田市から下伊那郡高森町一帯)の郷村を基盤にした国人層であった。それが政康の代にいたっては、府中近辺の領主が一七から二〇の番に編成されて、数多く名を連ねていることである。このことは小笠原氏の勢力範域が、伊那郡から府中方面へと拡大されているようすを示しているといえよう。

 ところでこの陣番帳には、善光寺平に領主制をしく延(の)べ三〇人近くの国人を数えることができる。そのうち現長野市域内に領主基盤地をおくと推定される国人は、五番の若槻と一三番の島津の両氏を除き、主として二五番以降に東信地域の国人らとの混成による番構成をとっている。すなわち、桑原、横田、清野、漆田、関屋、保科、寺尾、西条、今井、多久間(多田良(たたら)ヵ)、立屋(たてや)、桐原、市村、雁(かり)(狩)箱(ばこ)、長島らの諸氏がそれにあたる。

 これらの領主中で単独勤番する島津氏は、鎌倉期に水内郡太田荘において地頭領主制支配を展開し、南北朝期以降には伊作島津氏の分流が同荘内の長沼(長沼)や赤沼(同)の各郷を基盤にして、成長をとげた国人領主であった。この島津氏と同様に単独勤番の若槻氏は、南北朝期すえには若槻氏朝とその一族が知行していた譜代本領の若槻(本)荘が高梨氏のもとで給地化され、さらに応永十一年(一四〇四)ころには、荘内の若槻城を高梨氏のよる支城とさせていたことが確認される領主であった。若槻氏は高梨氏の領主支配のうちに取りこまれて給人化し、高梨氏の一族とみなされるような扱いをうける国人領主にほかならなかった。島津・若槻の両氏は、在地に密着した支配にみあう規模で領主支配を展開していた国人武士であったといえよう。

 いっぽう、二五番以降の複数による勤番とされた領主の多くは、郷村内に経営基盤をおいて、その地域の指導者として優越した地位を得ていた階層が領主化したものであったと思われる。二九番にみえる今井氏の場合、『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』によれば、つねに近隣の石渡戸(いしわと)(部)氏と寄り合って、諏訪社上社の花会頭役(はなえとうやく)二〇貫文の負担をしていた。しかも今井、石渡戸の両氏は実名に「範」の一字を共通の通字としていることからみて、一族関係にあったことが推測される。こうした関係から両氏は、花会頭役にさいしては上社頭役銭賦課の一基準とされていた二〇貫文を充足するために、半分ずつを出しあって負担を果たしていたものと思われる。一家あたり各一〇貫文を均等に負担した両氏は、一家ではその経済力が頭役銭の賦課基準額に達しない程度の小領主として認識されていたと考えられる。

 この今井氏が名字の地とした今井郷は、六ヵ郷用水(三条待居堰)の流末近くに立地し、明徳三年(元中九、一三九二)ころには高梨氏一族の高梨与一が知行した水内郡東条荘内石渡部、堀の両郷(朝陽石渡・北堀・南堀)のはざまに位置していた(『北堀誌』)。このような政治地理的な環境にあった今井の地に、今井氏は館を構えて居住していたのである。これらの諸点からすると、今井氏は石渡戸氏ともども、高梨氏の領主支配の影響を強くうける小規模な領主であったと考えられよう。今井氏は有力な国人領主である高梨氏と結びつくことによって、領主化をとげるにいたった地侍クラスの領主であったように思われる。


写真15 今井郷付近
(朝陽石渡、左を流れるのは六ヶ郷用水)

 陣番帳は、このような郷村名を名字とする小範囲の在地に密着した小領主が、市域各地に数多く出現するにいたった状況を伝えている。かれらは守護政康の軍勢催促にしたがうことによって、所領の再配分に預かり、現状以上の地域支配力をもつ領主へと脱皮しようと試みたものであろう。結城合戦はいまだ個々の支配力では微弱な群小の領主層が多数参陣し、戦いの直接的な主体として行動した合戦でもあったことが知られる。

 このように小笠原政康は、応永二十三年の禅秀の乱前後に将軍義持に登用されてから四半世紀をへて、信濃守護として分国信濃の支配を達成することができた。ここで注意されることは、現在、守護政康が発給した感状や所領安堵状などの分国支配の具体的なありようを示す文書(もんじょ)類がいっさい伝存していないという事実である。このことは単に史料伝存にかかわる偶然性の問題というよりも、政康が感状や安堵状の類(たぐい)を国人たちに数多く出すほどには、国人層の掌握を進展させ得ていなかった実情を示していると考えられる。

 守護政康の分国支配は、強力な守護権力の背景のもとに分国内のすべての国人を一定の知行制によって、自己の被官とするような領国主的な支配にまではいたっていなかったのである。その支配は将軍権力の国別執行者として、守護職権のひとつである国人にたいする軍事指揮統制の段階にとどまっていたのがじっさいのところであったと思われる。政康の信濃統治は、鎌倉府対策のために当国に政策介入した幕府権力を有効に利用し、また、それに依拠(いきょ)してすすめられたものであったといえよう。

 結城合戦が終わった二ヵ月後の嘉吉元年(一四四一)六月、将軍義教が赤松満祐(みつすけ)に暗殺されるという「嘉吉の乱」が起きた。この将軍義教の横死(おうし)は、当然、幕府権力を背景にこれに依存して成立をみた守護政康の信濃支配に、影響をあたえずにはおかなかった。そのことが明らかになる前に、結城合戦の戦後処理を終えて関東を引き上げた政康は、嘉吉二年八月、小県郡の海野(小県郡東部町)において病死した。