守護家小笠原氏の内紛

734 ~ 737

嘉吉の乱で将軍足利義教が「犬死に」(『看聞御記(かんもんぎょき)』)した幕府では将軍権力が失墜(しっつい)し、有力守護勢力の優位が決定づけられた。将軍職は八歳になる義教の嫡男義勝(ちゃくなんよしかつ)が継承したが二年後に病死し、そのあとは九歳の弟義政(よしまさ)が継いだ。幼少な将軍の就任は、強大な勢威を誇る有力守護の管領が将軍権力を全面的に代行し幕府政治を執政する、いわゆる管領政治を生みだした。この政治形態は将軍義政が親政を本格的に始める長禄(ちょうろく)初年(一四五七ころ)までつづいたが、このあいだの管領職には細川持之(もちゆき)(持之没後はその嗣子(しし)の勝元(かつもと))と畠山持国(もちくに)が交互に就任した。

 幕政をにぎる管領職に就いた細川氏と畠山氏は、自己の系列下に入る中小の守護家を求めて権力抗争を展開した。両氏の抗争はしばしば、南北朝期以降に守護家や地頭御家人層の惣領が、一族を統制・包括する権限として成立をみていた惣領職(そうりょうしき)の相続問題に関連して引き起こされた。そうした管領政治によって執りおこなわれる幕政は、守護政康死後の小笠原氏の惣領職相続問題についても、影響をおよぼさずにはおかなかった。

 守護小笠原政康は生前、子の宗康・光康(みつやす)兄弟につき、伊那郡伊賀良(いがら)荘のことは弟の光康に任せ、小笠原家のことは兄弟の取りはからいによるとした自筆の置文(おきぶみ)を書き残していたが、譲状(ゆずりじょう)は残さなかった。こうしたなかで政康の兄小笠原長将(ながまさ)の嫡子持長は、確(かく)たる証拠の文書はないものの、長秀から持長に譲与するとの約束があったとして、小笠原家惣領職を相続する権利を主張した。この従兄弟の持長による強弁に危惧(きぐ)をいだいた宗康は、上述の政康自筆置文や、応永十二年(一四〇五)に長秀が弟の政康にあたえた譲状などを根拠にして幕府に提訴し、相続問題の解決をはかろうとした。長秀が政康に付与した譲状には、所領などは一括(いっかつ)して政康にゆずるが、政康に実子がいなかった場合には、兄長将の嫡子持長にゆずるとした付帯文言(もんごん)が記載されていた。長秀の譲状による限りでは、現実には政康に宗康以下の実子がいたことからすれば、持長の言い分には無理があったといわねばならない。

 持長が強引とも思われる主張を試みた背景には、この相続訴訟のおりに、ときの管領職に持長の継父(けいふ)にあたる畠山持国が就任していたという情勢が預かっていた(『増補溝口(みぞぐち)家記』)。持長は惣領職を手に入れるために、姻戚(いんせき)関係にある管領持国の支援をうしろだてにして、これを積極的に利用しようとしたことが考えられる。

 訴人(そにん)(宗康)、論人(ろんにん)(持長)ともに政康の正式な譲状を所持しないというこの訴訟は、文安二年(一四四五)すえ、幕府評定衆の意見答申によって決着がはかられた。幕府の意見具申の機関である評定衆の出した結論は、政康の自筆置文の意向を汲(く)んで「譲状なしと雖(いえど)も、宗康領掌(りょうしょう)すべきの条勿論欤(もちろんか)」(『信史』⑧『小笠原文書』)と、宗康に小笠原家惣領職の相続を認めるものであった。こうして宗康による小笠原家の相続、したがって信濃守護職を受けつぐことは幕府の公認するところとなった。しかし、ことはこれで収(おさ)まらずに、小笠原家の惣領職をめぐる両者の確執(かくしつ)はしだいに深刻なものとなっていった。訴訟に敗れた持長は、簡単には小笠原氏の惣領職をあきらめなかったのである。それはこの時期、惣領職が一族の統制権を意味する観念のもとに、単独相続制への傾向を芽生えさせていたことにあった。そのため惣領の政治・経済的な立場は庶子にくらべて絶対的なものとなり、惣領職の相続者になれるか否(いな)かは単に本人だけの問題にとどまらずに、それを取り巻く被官たちにも大きな影響をもつようになっていたからである。


図3 小笠原氏略系図

 宗康と持長との惣領職争奪にまつわる対立と緊張が高まるなか、宗康は母方の血縁にあたる水内郡市村(芹田南市・北市)の春日盛貞が率いる春日一揆の加勢や、父の政康から伝領したと思われる更級郡小島田郷からの兵などを動員して、三〇〇〇余騎(五〇〇〇余騎とも)の軍勢を糾合した。これにたいして持長の兵数は、府中周辺の国人に、小笠原氏一族で更級郡四宮荘内塩崎郷(篠ノ井塩崎)を領知していた義父の赤沢満経(みつつね)やその嫡男教経(のりつね)らの助勢などを加えても(『信史』⑧『寛政重修諸家譜』)、一〇〇〇騎(二〇〇〇騎とも)にも満たないものであった。兵力の面では、圧倒的に宗康方に分(ぶ)のあったことが知られる。

 両者の戦いは文安(ぶんあん)三年三月、漆田原の大黒塚付近においておこなわれた。この大黒塚は現平柴地籍の台地上にある大黒山に比定されているが、そうであればここは漆田に設けられていた守護所の城館があった地点近くにあたることとなり、守護の宗康はここによって持長の軍と相まみえたことが考えられる。終日にわたった合戦は、苦戦を強いられていた持長が最後の戦いで形勢を逆転し、軍事的に優勢であった宗康軍を打ち破ることで決着をみた。この漆田原の合戦に勝利を収めたことにより、持長はほどなくして守護所のある漆田郷を領有することができた。合戦における持長の勝利は、信濃国の実質的な支配権が持長にあることを国内一円に明らかにするうえで、意義深いものがあったといえよう。

 他方、この合戦で瀕死(ひんし)の重傷を負い、再起不能であることを覚悟した宗康は、伊那郡伊賀良荘にいる弟の光康に書状を書き送った。それには遺児の国松が継嗣に定まるまでのあいた、光康に宗康が所持していた小笠原氏の「ミやうし(名字)(惣領職)・くニ(信濃守護職)・シよリやう(所領)」(『信史』⑧『小笠原文書』)のすべてを、預けることがしたためられていた。


写真16 小笠原宗康書状
(小笠原文書、東京大学史料編纂所蔵)

 宗康没後の文安三年五月以前に幕府は、宗康の書状にみえる小笠原家惣領職、信濃守護職などを、これらを預かっていた弟の光康に安堵した。このことは宗康の戦死をいちはやく幕府に知らせた甲斐守護武田信重に、管領細川勝元の叔父細川持賢(もちかた)から告げられている。持長が幕府の裁許を承服せずに惣領職を得るために、直接的な行動をとって宗康に打ち勝っても、幕府の容認するところとはならなかったのである。そこには畠山氏の支援をうけていた持長にたいして、合戦当時、幕政執政の任にあった管領の細川氏が、持長の惣領職を認めるわけもないという現実が伏在していた。事実、持長は管領が畠山持国であった宝徳(ほうとく)三年(一四五一)ころには信濃の守護職に就くことを得たが、享徳(きょうとく)元年(一四五二)すえに管領職が持国から細川勝元に移ると、翌年ころにはふたたび守護職を光康にゆずることを余儀なくされている。

 このように幕府管領政治の権力抗争に左右されて、小笠原氏の信濃守護職は転変を繰りかえしたのであった。このあいだに小笠原氏一族間の対立は、決定的なものとなっていった。宗康の没後、弟の光康は宗康の遺児国松を擁して伊賀良荘内松尾(飯田市)に居住し(松尾小笠原家。ちなみに、元服後に政秀(まさひで)あるいは政貞(まささだ)と名乗る国松は、後年、伊賀良荘内鈴岡に居を構えたことから、この系統を鈴岡小笠原家と称した)、持長は府中井川(いがわ)(松本市)を本拠地にして(深志小笠原家)二極に分化したことから、両小笠原氏は互いに勢力の拡大を競いあって抗争するにいたっていくことになる。小笠原氏自体が招いたこうした状況は、同氏の信濃守護としての分国支配を弱体化させ、局地的な勢力へと下降することを意味していた。