後退する守護支配と北信濃

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将軍足利義政の親政が足利家家宰(かさい)の政所執事家伊勢貞親(さだちか)による支(ささ)えのもとに運営され、それが管領政治を圧倒し凌駕(りょうが)するようになるのは、長禄初年のころからとみられている。京都の政治体制がこのように変容をきざしはじめたころ、永享の乱でいったんはほろんだ鎌倉御所が再興した。佐久の大井持光が扶育(ふいく)していた鎌倉御所足利持氏の遺児成氏(しげうじ)(幼名万寿王丸)が、文安四年(一四四七)ころまでには、越後守護上杉房朝(ふさとも)や旧持氏近臣とその与党たちに擁立されて、持氏の遺跡(ゆいせき)、すなわち、鎌倉御所の名跡(みょうせき)を相続し幕府の承認をうけたのである。関東管領には、山内家上杉憲実の長子上杉憲忠(のりただ)が就任した。

 こうして鎌倉府は再建をみたが、御所の成氏は、管領の憲忠を補佐した山内・扇谷(おうぎがやつ)の両上杉家家宰であった長尾景仲(かげなか)・太田資清(おおたすけきよ)の両氏らと対立した。享徳(きょうとく)三年(一四五四)すえ、あくまでも関東管領上杉氏を通じて関東の支配体制の継続をもくろむ幕府にたいし、関東における実質的な政権把握を実現しようとする成氏とその与同勢力は、管領の憲忠を鎌倉西御門(にしみかど)の邸(やしき)においてこれを謀殺(ぼうさつ)した。これ以降数年間にわたって、関東では上杉党と成氏党の戦闘が断続して起こり、動乱の様相を呈した。東国の戦国時代への開幕を告げる、「享徳の乱」が開始されたのである。

 享徳の乱は、伊那と府中とに分裂して分国支配権を弱体化させていた小笠原氏が守護職をもつ信濃にも、いくつかの影響をもたらした。幕府は御所足利成氏の管領憲忠の殺害に関する釈明をしりぞけて、成氏を討伐する方針をとった。享徳四年正月、将軍義政は信濃守護小笠原光康に上杉氏への赴援(ふえん)を命じた。光康はこの関東出陣命令を実行しようとしたが、御所の成氏と連係した小笠原持長の嫡男清宗(きよむね)が府中近在の国人と結託して光康に抵抗したために、康正(こうしょう)二年(一四五六)五月にいたっても軍勢を発向させることができなかった。光康が出陣できたのは、同年九月近くになってからのことであった。出陣が可能になったのは、幕府が光康に、清宗とこれに合力する国人に治罰(ちばつ)・折檻(せっかん)を加える旨の命令をあたえて、清宗らの動きを牽制したからである。

 守護光康の出陣を遅延させたこのような事態は、長禄二年(一四五八)八月、幕府から上野の岩松尚純(いわまつなおずみ)を支援して御所の成氏を討つために関東出陣を命じられたさいにも生じている。このときにも清宗らは、光康の出兵を阻害した。光康が守護の職権を行使して国内の地頭御家人を軍事指揮・統制するという守護の職責遂行(すいこう)の行為は、もはや破綻(はたん)に瀕(ひん)していたようすがうかがわれる。

 守護小笠原氏の分国支配力の低下と享徳の乱は、北信濃の国人にも影響をあたえずにはおかなかった。寛正(かんしょう)四年(一四六三)、越後守護上杉房定(ふささだ)の一族である上杉右馬頭(うまのかみ)を大将とする越後勢が、高梨氏の本領地高井郡椽原荘近くの高橋(中野市新保から西条付近)に侵攻して、在所一帯に放火するという「大乱」を引きおこした(『諏訪御符礼之古書』)。高梨氏惣領家の政高(まさたか)が反撃して、同年すえには大将の右馬頭を討ちとっている。この大乱は越後守護の上杉房定が、鎌倉御所の足利成氏に謀殺された関東管領上杉憲忠の弟で同職に就任した上杉房顕(ふさあき)を助けて、この当時、古河(こが)(茨城県古河市)にいた成氏に対抗したことに起因していた。このとき高梨氏は成氏と結んでいたために、房定としては関東の後方勢力にあたる北信濃の高梨氏を制圧し、同氏が軍事行動に出ることを未然に防ぐ必要があったことによるものと思われる。

 この上杉房定の行動は、信濃に関するなんらかの公的な権限にもとづいてなされたものであったと推測される。後年のことになるが、文明(ぶんめい)三年(一四七一)、これ以前に関東に出兵していた房定は、突然に兵を撤収して分国の越後へ引き上げたことから将軍義政の怒りを買うことがあった。そのとき房定は、信濃対策のゆえと弁明したといわれている。これらの点を考えあわせると、越後守護の房定は幕府から弱体の信濃守護小笠原氏を補完するような権限、すなわち、守護職権をあたえられて信濃に半国守護制を成立させていたことが考えられる。こうしたことから房定は、信越国境に向けて領域支配を強める高梨氏が御所の成氏と通じて策動することを見すごしているわけにはいかず、信濃半国守護の立場から高梨氏の攻略に乗りだしたものと思われる。

 この高橋の大乱において、高梨氏の近隣領主として高井郡東条荘内の新野(しんの)郷(中野市)と大熊(おおくま)郷(同)をそれぞれ領知していた新野朝安(ともやす)・大熊高家(たかいえ)は、この機会に乗じて高梨氏からの自立化を試みたものの、失敗したらしく没落している。合戦後、新野郷は高梨惣領家の政高が領有し、大熊郷は高梨氏一族の房高が、また、北大熊郷は給人の大俣(おおまた)高親の知行するところとなった(以上表3参照)。少なくともこの乱において、高梨氏は非血縁的な在地領主を武力によって征服し、支配領域を拡大させることができたのである。


写真17 大乱のあった高橋付近
(中野市西条付近)

 高梨政高が上杉右馬頭を討ちとった一件は幕府に伝えられ、管領細川勝元の処断にゆだねられた。幕府公権を分掌する守護に武力反抗したという事態であったために、政高は不利な状況におかれた。このため政高は、寛正六年(一四六五)のはじめ、この当時将軍義政親政下の幕政の中心にいた政所執事家の伊勢貞親に馬匹(ばひつ)を贈って、その立場が好転するように取りはからいを依頼した。貞親は政所代の蜷川親元(にながわちかもと)に政高あての書状を書かせ、前管領の細川勝元へいっそうの謝罪をして免責につとめるよう勧告している。しかし、政高の努力にもかかわらず、幕府は高梨氏を許さなかった。同年六月、幕府は前守護伊那松尾小笠原光康の子家長(いえなが)に、信濃半国守護の上杉房定と相談して、村上政清・高梨政高らを討伐することを命じた管領奉書をくだした。

 このように近隣の有力国人である村上氏や、あるいは遠く古河にいる御所成氏らと連係・結託して、信濃守護および幕府と対抗しようとした高梨氏の対幕府工作は失敗に終わった。そうした情勢のなか、幕府の村上・高梨氏らにたいする討伐命令は、東・北信の国人領主たちに領域支配拡大の機会をもたらした。討伐命令が出た翌寛正七年、大文字一揆の構成員であった香坂・小田切氏らによる善光寺平への進出がみられた。両氏は水内郡東条荘内和田郷(古牧東和田・西和田)に侵攻し、一時的ではあったが同地の高梨氏の領有をとどめて香坂氏が知行し、小田切貞遠がその代官に就いた。また、この年小田切氏にあっては同高遠が水内郡窪寺を、ついで翌文正二年(一四六七)には同郡東条荘内富武(とみたけ)郷(古里富竹)を知行するにいたっている。さらに寛正七年には、高井郡の鮎(あゆ)川流域沿いに位置する井上一六郷(須坂市)を主要領主地としていた井上一族の井上満貞(みつさだ)と、村上氏とのあいだに合戦が生じた。この戦いが原因となったものか、満貞はその年に死没している。満貞の知行していた高井郡東条荘内山田郷(高山村)は、高梨氏の有力庶子家である山田高梨氏の高朝(たかとも)が領知するところとなった(以上表3および『須坂市史』参照)。

 このように村上・高梨氏らにたいする討伐命令が下付されてからの数年間、両氏は周辺地域の国人の攻撃にさらされ、それまで領有していた所領・所職(しょしき)を安定して所持することができなかった。このことはたしかに経済、軍事上の損失であることに相違はなかったが、その反面において、いままで経営していた散在所領や所職を整理して一地域に集中・一円化し、嫡子一人による強固な単一領主支配権を確立する好機の到来でもあることを意味していた。こうした動向は、地域に基盤をおいた自立的な封建領主制の形成をめざす国人領主にとって、新たな課題となる状況が生まれたことを示唆するものであった。